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[摂関時代(2)] |
一条帝(位986-1011)
986年:藤原兼家、一条帝の外祖父として摂政就任。
989年:藤原兼家が太政大臣、息子の道隆が内大臣、道兼が権大納言、道長が権中納言に。
990年:藤原兼家死去。道隆が関白となる。
995年:藤原道隆死去。道兼が関白となる。但し、道兼は流行病で亡くなり七日関白と呼ばれた。
関白藤原道兼の死後、道隆の子の藤原伊周と争う。藤原伊周は政争に敗れ大宰府へ流される。
道長は右大臣就任。
1000年:道長の娘、彰子が一条帝に入内。
1008年:彰子、敦成親王(後一条帝)を出産。
後一条帝(位1016-1036)
1016年:敦成親王即位。藤原道長摂政となる。
1017年:藤原道長、摂政を長男の藤原頼通に譲り、太政大臣となる。
1018年:藤原道長の娘の威子が後一条帝の中宮となる。
1019年:藤原道長出家。
1027年:藤原道長死去。
1028年:「平忠常の乱(-31)」勃発。房総地方に土着した前上総介平忠常が1027年に安房守惟思を殺害し叛乱。平直方を追討使として派遣するも失敗し、1030年に源頼信が追討使となったことで翌年降伏し鎮圧された。
後朱雀帝(位1036-1045)
1037年:藤原頼通の養女の源子が後朱雀天皇の中宮になる。
藤原頼道は、帝の外祖父となることを望むも皇子誕生せず。
1039年:比叡山延暦寺僧兵、藤原頼通の屋敷に放火。
後冷泉(位1045-1068)
1051年:藤原頼通の娘の寛子、後冷泉帝の皇后となる。
1053年:藤原頼通が、平等院鳳凰堂建立。
1067年:藤原頼通が関白辞任。
後三条帝(在1068-1072)
1069(延久1)年:延久の荘園整理令
1069年:「絹布(けんぷ)の制」によって絹や布の品質を統一。
1072年:公定升を定める。
藤原頼通が出家。藤原頼通に代わって弟の藤原教通が関白に。
藤原教通も兄と同様、帝の外戚となれず、後三条帝の時代に摂関政治が終焉を迎える。
後三条帝の親政開始。
貞仁親王を皇太子とし藤原摂関家による支配を否定。
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