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[院政時代] |
白河帝(在1072-1086)
1072年:後三条帝崩御により皇太子貞仁親王が白河帝として即位。
1083年:後三年の役(〜87)
1086年:白河帝、息子の善仁親王に譲位し善仁親王が堀河帝として即位。
これにより白河院政が開始される。
白河上皇院政/堀河帝(1086-1107)
1087年:後三年の役、終息
1095年:白河上皇、院庁警備のために北面の武士を置く。
1096年:白河上皇、出家し白河法皇となる。
1107年:堀河帝崩御
白河法皇院政/鳥羽帝(1107-1123)
鳥羽帝は伊勢平氏の平正盛を重用。
1123年:白河法皇の強い要請によって皇位を息子の顕仁親王に譲位。
白河法皇院政==>鳥羽上皇院政/崇徳帝(1123-1142)
崇徳帝は鳥羽帝の第一皇子で待賢門院藤原璋子の子。但し、白河法皇の子であるという噂があった。
1129年:白河法皇崩御。
以降、鳥羽上皇が勢力を伸ばす。
1141年:鳥羽上皇の強い要請によって、美福門院藤原得子との子である崇徳第八皇子体仁に譲位。
鳥羽上皇院政/近衛帝(位1141-1155)
近衛帝のもとには、藤原頼長の養女の多子と藤原忠通の養女の呈子が入内。忠通・頼長兄弟対立となる。
1155年:近衛帝崩御。
崇徳上皇は皇子の重仁親王の即位を望むも、鳥羽上皇の第四皇子の雅仁親王(後白河帝)が即位。崇徳上皇は藤原頼長と結ぶ。
後白河帝(位1155-58)
1156年:鳥羽上皇崩御。「保元の乱」勃発。
鳥羽院は最期まで崇徳院との面会を拒絶。進退窮まった崇徳院が藤原頼長、源為義、平忠正を動員。
これに対して、後白河帝は藤原通憲(信西)、平清盛、源義朝を動員して崇徳院方を破る。
1158年:皇太子の守仁親王に譲位。院政を開始。
後白河院政/二条天皇(位1158-65)
1159年:「平治の乱」勃発。後白河帝擁立の立役者である信西は後白河帝を中継ぎの天皇と考えていた。このことと、後白河院政で信西が権勢を欲しいままにしたことから、信西は源義朝や後白河上皇の寵臣藤原信頼の反感を買うようになっていく。
ここに二条帝親政を願う外戚の権大納言藤原経宗と天皇の乳母の子で信頼の叔父でもある参議藤原惟方、鳥羽法皇の寵臣藤原家成の三男藤原成親などの二条帝側近が加わって平清盛が熊野参詣に出た隙を突いて反信西派が源義朝を主力として挙兵。
院御所三条殿と姉小路西洞院にある信西邸を焼き討ち。後白河上皇とその姉の上西門院を内裏の一本御書所に、二条帝を内裏にある黒戸の御所に幽閉。
信西は一時は逃れたものの源光保により斬首。
平清盛は急を聞き帰京。藤原信頼の勢力拡大に懸念を感じていた内大臣藤原公教が二条帝側近グループの経宗・惟方らに離反を勧め成功。惟方の妻の兄弟の藤原尹明が平清盛に内通し二条帝、後白河上皇の奪還に平清盛が成功するに及び帰趨が決する。
仁和寺に逃れた藤原信頼は捉えられて六条河原で斬首。藤原成親は小者ということで解官。
源義朝の次男朝長は近江青墓宿で自害。源義朝と郎等の鎌田正清は長田忠致によって暗殺。源義朝の長男の鎌倉悪源太源義平は捕らえられ六条河原で斬首。途中で逸れた源頼朝は捕らえられ、池の禅尼の助命嘆願により伊豆配流。
義朝の愛妾常磐とその子ら今若、乙若、牛若も捕らえられた。
六条天皇(1164-76,位1165-68)
1167年:平清盛、太政大臣任官。武士として初めて。
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