イギリス東インド会社
イギリス東インド会社[East India Company;EIC]は,英国において,アジア貿易を目的に設立された勅許会社.1600年に設立され1874年6月1日に解散.1757年からセポイの乱によって英国王室に統治権を譲渡する1858年まで英国領インドの植民地統治を担った.
年表
- 1602年:ジャワ島バンテンに商館を設置.
- 1613年:日本の平戸に商館を設置.
- 1623年:アンボイナ事件[Amboyna massacre].オランダ領東インドのモルッカ諸島アンボイア島のイギリス東インド会社商館がオランダにより襲撃され商館員全員が殺害される.この事件を契機としてイギリス東インド会社の東南アジアにおける影響力は縮小.
イギリス東インド会社の日本人平戸出身傭兵・七蔵をオランダ当局が尋問しイギリスによる侵攻が発覚.イギリス東インド会社商館長ガブリエル・タワーソン[Gabriel Towerson]を含めてイギリス人9人,日本人10人,ポルトガル人1人が斬首された. - 1657年:イングランド共和国初代護国卿[Lord Protector]であるオリバー・クロムウェル[Oliver Cromwell,1599/04/25-1658/09/03]が会社組織改組.利潤のみを株主に分配する方式となる.
- 1698年2月:オランダ総督であったオラニエ公・ナッサウ伯[Oranje-Nassau]がイングランド議会の要請によりイングランド王ウィリアム3世[William III,1650/11/14日-1702/03/08]として即位[名誉革命,Glorious Revolution].
- 1698年9月:ウィリアム3世がイギリス東インド会社とは別に新イギリス東インド会社[東インドと貿易をするイングランドのカンパニー]を設立.旧イギリス東インド会社の特権は3年後に失効するものとされる.
- 1709年:新旧のイギリス東インド会社が合併.
- 1707年:ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ[Aurangzēb,1618/11/03-1707/03/03]の死後の混乱に乗じてイギリス東インド会社とフランス東インド会社の勢力圏争いが激化.
- 1713年:ムガル帝国第8代皇帝ジャハーンダール・シャー[Jahandar Shah,1661/05/09-1713/02/11]とファッルフシヤル[Furrukhsiyar,1685/08/20-1719/04/29]が帝位を争う内乱状態となる.
カルナータカ太守[Nawab of the Carnatic]のサアーダトゥッラー・ハーン[Sa'adatullah Khan,生年不詳-1732]が独立[ナワーヤト朝]. - 1717年:イギリス東インド会社がムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤル[Furrukhsiyar,1685/08/20-1719/04/29]からベンガル地方における輸出関税免除の特権を得る.
- 1744年:カルナータカ太守サアーダトゥッラー・ハーン2世[Sa'adatullah Khan II,生年不詳-1744/07/04]が殺害される.これを受け,ニザーム王国[Nizam of Hyderabad/Nizam Dominion]アーサフ・ジャー1世[Qamar-ud-din Khan,1671/08/11-1748/06/01]がカルナータカ太守の後見人であったワラー・ジャー家のアンワールッディーン・ハーン[Anwaruddin Khan,1672-1749/08/03]を擁立[アンワーリーヤ朝].
- 1744年:第1次カーナティック戦争[Carnatic Wars;1744-1748]勃発.カルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンにナワーヤト家のチャンダー・サーヒブ[Chanda Sahib,生年不詳–1752/06/12]が正当性を主張.オーストリア継承戦争[War of the Austrian Succession,1740-1748]の延長線上で英仏両軍がインドで戦う.
- 1476年9月21日:マドラスの戦い[Battle of Madras].カルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンに引き渡すことを約したフランス軍がイギリス軍を攻撃してマドラスを占領.
- 1748年10月:オーストリア継承戦争の終結により第1次カーナティック戦争も終結.
- 1749年:第2次カーナティック戦争[Carnatic Wars;1749-1754]勃発.フランスがチャンダー・サーヒブと結んでアンブールの戦いでカルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンを敗死させる.アンワールッディーン・ハーンの子のムハンマド・アリー・ハーン[Muhammad Ali Khan Wlala Jah,1717 or 1723/07/07-1795/10/13]がイギリスの支援を受けてチャンダー・サーヒブに対抗.
- 1751年12月:首都アルコットがイギリスの初代クライヴ男爵ロバート・クライヴ[Robert Clive,1st Baron Clive,1725/09/29-1774/11/22]により占領.
- 1752年4月:チャンダー・サーヒブが敗れる.6月14日にタンジャーヴール・マラーター王国[Thanjavur Maratha kingdom]に支援を求めるも殺害される.
- 1754年:フランス側から和議.
- 1756年8月:七年戦争[Seven Years' War,1756-1763]勃発.ハプスブルク家[Haus Habsburg]がオーストリア継承戦争[War of the Austrian Succession]で失ったシュレージエン[Silesia,現ポーランド南西部からチェコ北東部]のプロイセン[Königreich Preußen]からの奪回を目指したことが発端.
- 1757年10月:プラッシーの戦い[Battle of Plassey]. イギリス東インド会社軍とベンガル太守[Nawab of Bengal]およびフランス東インド会社連合軍との戦い.
ベンガル太守シラージュ・ウッダウラ[Siraj ud-Daulah,1728/08/06以前-1757/07/04]がイギリスによる要塞強化を不服としてカルカッタのウィリアム要塞を占領したこと[1756]が契機.
イギリス軍が勝利.この勝利により,イギリス東インド会社はベンガルにおける覇権を確立. - 1758年:第3次カーナティック戦争[Carnatic Wars;1749-1754]勃発.
プラッシーの戦いで敗れたフランス軍はチャンダー・サーヒブの子のラザー・サーヒブを擁立.しかし,フランス軍はイギリス軍に敗れインドからの撤退を余儀なくされる. - 1764年10月23日:ブクサールの戦い[Battle of Buxar].
イギリス東インド会社とムガル帝国第15代皇帝シャー・アーラム2世[Shah Alam II,1728/06/25-1806/11/19],アワド太守[Nawab of Awadh]シュジャー・ウッダウラ[Shuja ud-Daula,1732/01/19-1775/01/26],ベンガル太守ミール・ジャアファル[Mir Ja'afar,1691-1765/02/05]連合軍との戦い.
プラッシーの戦いでイギリス軍に寝返ったミール・ジャアファル[Mir Ja'afar,1691-1765/02/05]は新太守として擁立されるも,イギリス東インド会社に約束されていた徴税を巡って対立.戦端が開かれるもイギリスが勝利. - 1765年:アラーハーバード条約締結.ブクサールの戦いの講和条約.イギリス東インド会社はムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの3地方のディーワーニー[Diwan/Dewan,徴税権]を与えられる.
- 1772年:イギリス東インド会社取締役会によりウォーレン・ヘースティングズ[Warren Hastings,1732/12/06-1818/08/22]が初代ベンガル総督に任命される.以降,3州のディーワーニーが直接行使される.
以降,イギリス東インド会社はカルカッタ・ボンベイ・マドラスを拠点にムガル帝国を形骸化させインドの植民地化をはかっていく. - 1770年代:中国貿易の拡大により,私貿易を行うカントリー・トレーダーが急成長しエージェンシー・ハウスと呼ばれるようになり自由貿易を要求するようになっていく.一方,イギリス東インド会社への圧力が高まる.
- 1793年:インド貿易の一部が自由化される.
- 1813年:イギリス東インド会社のインドにおける独占貿易が終了.
- 1833年:イギリス東インド会社の中国における独占貿易も終了.
- 1845年:シク戦争[Anglo-Sikh War]勃発.イギリス東インド会社とシク王国によって2度にわたって行われた戦争.1849年3月26日,シク王国が降伏.イギリスの植民地となる.
- 1857年:インド大反乱[Indian Rebellion,1857-58].第1次インド独立戦争[India's First War of Independence]ともいう.
イギリス東インド会社が編成したインド人傭兵であるスィパーヒー[sipahi]がムガル帝国第17代皇帝バハードゥル・シャー2世[Bahadur Shah II,1775/10/24-1862/11/07]を最高指導者として擁立し叛旗を翻す.
イギリスが勝利しバハードゥル・シャー2世は廃位されムガル帝国は終焉. - 1858年:イギリス首相第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル[Henry John Temple,3rd Viscount Palmerston,KG,GCB, PC,FRS,1784/10/20-1865/10/18]はインド大反乱の責任はイギリス東インド会社にあるとして解散を命じる法案の提出を宣言.イギリス政府によるインド直接統治へと舵を切る[1858年インド統治法,Government of India Act 1858].
法案が成立するのはダービー伯爵政権. - 1877年:イギリス・ハノーヴァー朝第6代ヴィクトリア女王[Victoria,1819/05/24-1901/01/22]がインド帝国[Indian Empire]の成立を宣言.
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