安田

清和源氏 義光流.甲斐源氏の安田義定[1134-1194]を祖とする.甲斐国山梨郡八幡荘内安田郷を本貫地とした.

甲斐源氏は応保2[1162]年の八代荘停廃事件によって在庁官人の三枝一族が没落した空白を埋める形で勢力を拡大していった.

安田義定は保田山妙音寺に館を構えて安田を称した.

治承・寿永の乱において,源頼朝が石橋山合戦で敗れると,平家方の俣野景久が駿河国目代・橘遠茂[-1180]とともに甲斐国内へと侵攻.これを安田義定を筆頭とする甲斐源氏一族と工藤景光・行光,市川行房らが迎え撃った[波志田山合戦].波志田山合戦の戦いに勝利した甲斐源氏は続いて武田信義,一条忠頼らが信濃国へと侵攻.さらに,安田義定は武田信義とともに駿河国へ攻め入り,駿河国鉢田において再び橘遠茂の軍と激突.平家軍は敗れ,橘遠茂は捕虜となる.なお,この時,北条時政・義時父子は甲斐源氏と行動をともにしている.

鎌倉幕府樹立に貢献した甲斐源氏であったが,平家滅亡後は源頼朝によって排斥されていく.建久4[1193]年,安田義定の子の義資が院の女房に艶書を送った罪により斬刑.安田義定も所領没収.翌年には,安田義定は謀反の罪により梟首された[永福寺事件].

系譜

安田氏後裔 粟屋,米沢武田家.

参考

八代荘停廃事件

応保2[1162]年に起こった甲斐国衙と荘園との争い.甲斐国守の藤原忠重が甲斐国に派遣していた目代・中原清弘が在庁官人の三枝守政とともに,応保2[1162]年10月6日,八代荘を攻撃し停廃.これに対して,八代荘の本所である紀州熊野神社が朝廷に訴え藤原忠重側が敗れた.





















index|家紋|     明星     西園寺十五将     伊予西園寺     安田     粟屋


Warning: fclose(): supplied argument is not a valid stream resource in /var/www/html/history/familytree.php on line 194