藤原北家 道兼流 宇都宮氏族.源姓塩谷氏の最後の当主・朝義に子が無かったため,宇都宮成綱の子の朝業[1174-1248]が娘婿となり塩谷家の名跡を継いだ.塩谷朝業は堀江山城の北側に新たに川崎城を築城し居城とした.塩谷教綱[1406-1458]の時,宇都宮持綱[1396-1423]と対立.宇都宮持綱は武茂家から宇都宮家の家督を継いだ人物.これに反感を抱いた塩谷教綱は第4代鎌倉公方・足利持氏[1398-1439]と組み,応永30[1423]年8月9日,宇都宮持綱を幸岡[栃木県矢板市大字幸岡]の地に誘い出して謀殺.足利持氏によって宇都宮家綱が当主に据えられ,塩谷教綱は後見として宇都宮城に入ったともされる.永享11[1439]年2月10日,永享の乱で足利持氏が室町幕府軍に敗れて自刃すると塩谷教綱は劣勢に立たされる.長禄2[1458]年5月8日,塩谷教綱は宇都宮城に入ったところで襲撃を受け殺害された.
塩谷教綱の死後,家督を承継した塩谷隆綱[1439-1490]は対立していた宇都宮正綱[1447-1477]と和睦.宇都宮正綱の子の弥六郎を婿養子として迎え塩谷孝綱[1470-1546]として家督を承継させた.以降,重興塩谷氏と呼ばれる.
文禄4[1595]年2月8日,塩谷義綱は豊臣秀吉により改易.後の慶長2[1597]年1月2日,塩谷義綱は佐竹義宣の家臣となり,佐竹家が秋田に転封となると十二所城代として仕えた.