在位1338~1358.
鎌倉幕府の有力御家人にして,源氏の血を引く名門.更には北条氏の一門で,鎌倉幕府最後の執権[第16代]赤橋守時の妹の登子を妻とするなど鎌倉幕府の中でも重い地位を占める.
しかし,母方の兄に当たる上杉憲房の勧めもあって後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると,幕府側の兵を率いる大将の身分でありながら叛旗を翻し,京都における幕府の拠点であった六波羅探題を攻め,鎌倉幕府を倒壊させた.
当初は後醍醐天皇の信頼篤く,天皇の尊治の名の一字を貰い高氏から尊氏と改めるほどであったが,武家と公家の考え方の違いから袂を別つ.1336年に後醍醐天皇が吉野に逃れて反足利色を鮮明にすると光明天皇[豊仁;1322-1380;北朝在1336-1348]を据えて,1338年に室町幕府[1338-1573]を建てた.
在位1358~1367.幕府の安定につくし,細川頼之に義満をたくして病死.
在位1368~1394.南北朝合一に成功,室町幕府と将軍権力確立.対外的に日本国王と称し,足利天皇の実現を目指したともされるも急死.
在位1394~1423.有力守護大名の台頭を許す.室町幕府の安定期.後継者を定めずに病死.
在位1423~1425.父の義持が実際の執政をなしたために影の薄い将軍.若くして病死した後は義持が幕政を直接みた.
在位1429~1441.足利義満の子.義持が後継者を定めずに亡くなったために,義持の弟の青蓮院義円,相国寺永隆,大覚寺義昭,梶井義承の中からくじ引きで将軍となった.赤松邸で暗殺され,以降,幕府と将軍の権威の失墜が始まる.
在位1442~1443.父の死後,幼少ながら即位.管領細川持之が補佐.即位後,間もなく赤痢で死亡.父の義教の犠牲となった足利持氏,一色義貫,赤松満祐の怨霊の仕業と噂された.
在位1449~1473.兄の後を継いで8歳で即位.畠山持国,細川勝元が政治を行う.応仁の乱によって幕府の力が畿内ににしか及ばなくなるも,東山文化を生み出すなど文化的に貢献.
在位1473~1489.幕府権力の回復を目指して,近江守護六角高頼討伐のために近江に出陣するも陣没.
在位1490~1493.父は応仁の乱で将軍位を争った足利義視.その後,一旦は美濃に逃れるも,将軍義尚と和睦し将軍の近江親征に従軍.流れ公方と言われ,河内出陣中に細川政元のクーデターで追放.復権の後に,細川高国と対立し淡路へ出奔.
在位1494~1508.細川政元のクーデターによって擁立.しかし,大内義興と細川高国によって前将軍義稙が復権したため,近江へ逃れ復帰を目指すも近江岡山で薨去.
在位1508~1521.
在位1521~1546.細川管領家の内紛,さらには細川晴元と三好長慶との争いに翻弄された.
在位1546~1565.三好長逸・三好政康・石成友通の三好三人衆,松永久秀に二条御所を急襲され非業の死.
在位1568.11代義澄の子で堺公方義維の子として阿波で生まれる.三好三人衆によって擁立.
しかし,三好三人衆と松永久秀が対立していたこと,義輝の弟で松永久秀の監視下に置かれていた興福寺一条院覚慶[後の義昭]が近江へ逃亡したこともあって,京へは入洛することは叶わなかった.
在位1568~1573.織田信長によって擁立されるも,対立して京都から追放.