乳井

陸奥国乳井福王寺[乳井神社;にゅうい]の別当を,鎌倉時代以来,代々務めた一族.信濃国戸隠から鎌倉時代に来住したとされる.南北朝時代には乳井家は南朝に与し北朝方の曽我貞光により乳井古城を攻撃されている.

乳井玄蕃[覚恩房]は乳井城に拠って南部氏と対立.永禄8[1565]年6月5日,乳井玄蕃は荒田引座川畔[平川市荒田地区]において南部氏配下の大光寺城主・滝本重行の命を受けた後藤五郎左衛門の襲撃を受け討死.乳井玄蕃の子・建清[-1584]は大浦為信に仕え,乳井家復興を狙う.天正2[1574]年8月13日,大浦為信が大光寺城に進撃.この時は滝本重行の反撃に遭い撤退.しかし,天正4[1576]年1月1日,大浦為信は,再度,大光寺城を攻撃.大光寺城は落城し,滝本重行は南部へと逃れた.ここに,乳井建清は父の弔いを遂げた.

天正7[1579]年7月4日,安東氏の命を受けた比山六郎・七郎兄弟,滝本重行,北畠[浪岡]顕則が乳井に侵攻.乳井城・乳井茶臼館・乳井古館が落城.留守であった乳井建清は大浦為信・兼平綱則とともに大坊・岩館に布陣.乳井茶臼館に集結した侵攻軍と対峙.六羽川畔で激突.大浦軍は劣勢となるも,田中太郎五郎が連合軍へと突撃を敢行.これを大浦為信と誤認し討ち取った連合軍が歓喜に沸いた間隙を突いて,大浦軍は連合軍の総大将・比山六郎を討ち取る.総大将が討ち取られたことで連合軍は総崩れ.戦いは大浦軍の勝利となった.

乳井建清は天正10[1582]年に大光寺城の城主に任ぜられ,仇敵である滝本家の支配地を併呑した.乳井家は弘前藩士として続いた.


出典:国土地理院地図[電子国土Web]に一部追記.

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