宇佐社人田部氏流.平安時代末期から戦国時代に掛けて日向国北部を中心に勢力を誇った.欽明天皇32[570]年の宇佐八幡宮造営時に,田部宿禰直亥が,「土を盛るのにその袖でくるんで持ち運んだところ崩れなかった」ために欽明天皇から「土持」姓を賜ったという.田部氏は宇佐・大神・漆間に次ぐ宇佐八幡宮神官の家柄であった.
土持氏は臼杵郡司などを足掛かりとし,古くから日向国の有力氏族であった日下部氏と姻戚関係を取結び,その勢力を併呑することで勢力を拡大させた.同じように,後に日向国へと下向してきた伊東氏は土持氏との姻戚関係によって勢力を拡大し,土持氏と干戈を交えることとなる.
ともあれ,鎌倉時代,日下部盛平の養嗣子・土持信綱の子・景綱の子孫は県の庄に拠り県土持氏となり,同じく景綱の子孫は財部に拠って財部土持氏となった.
長禄元[1457]年,伊東祐堯と財部土持影綱と県土持宣綱は遂に合戦に及ぶ[小浪川の合戦].この結果,土持氏は敗れ,財部土持一族は伊東氏や島津氏の家臣となっていった.一方の県土持は大友氏および島津氏と結ぶことによって命脈を保つ.
ところが,伊東義祐[1512-1585]が大隅国肝付氏庶流の北原氏の北原兼守の未亡人で娘の麻生を北原庶流の馬関田右衛門佐に再嫁させることで北原家を掌握しようとし,北原家中の反対派を粛清.反対派からの要請により,島津貴久・相良義陽・北郷時久が介入.元亀3[1572]年5月,島津貴久が没した間隙突いて,伊東義祐が大軍をもって島津義弘の留守勢が少数で守る加久藤城に押し寄せた.急遽,島津義弘も駆けつけ,木崎原の戦いが行われた.この戦いは少数の島津軍が圧倒的多数の伊東軍を打ち破り,伊東氏は壊滅状態となる.この結果,伊東崩れと呼ばれる状況となり,伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命を余儀なくされた.
県土持親成[-1578]も大友氏から離反し島津氏に付いた.このため,大友宗麟が島津氏に対抗すべく日向国に侵攻すると攻められ滅亡.