惟宗氏.惟宗広言[1132-1189]の子・島津忠久[-1227]が元暦2[1185]年8月17日に近衛家領島津荘の下司職に任じられたことが起源とされる.その後,島津忠久は文治元1185年11月28日に源頼朝によって惣地頭に任ぜられた.
さらに,源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国の三国守護職,そして,越前国守護職も得た.これらの厚遇の背景として,島津忠久の母・丹後内侍が源頼朝の乳人・比企尼の長女であったことがあるとされる.源頼朝死後の比企能員の変[1203]への連座から守護職を一時失うものの,薩摩国守護職は回復している.
島津忠時[1202-1272]は承久3[1221]年の承久の乱での戦功により若狭国守護となったほか,幕政への貢献により,伊賀・讃岐・和泉・越前・近江国内の地頭職を得ている.
九州への下向は第3代の島津久経[1225-1284]がモンゴル帝国[元朝]による侵攻[元寇]への備えとしての下向が始まり.
第4代・島津忠宗[1251-1325]の時に,北郷氏・樺山氏・新納氏などの庶家を分出.南北朝時代の第5代・島津貞久[1269-1363]は嫡男の島津宗久[1322-1340]を早くに失っていたため,他の息子達が相続について争う事態となる.結果,正平18/貞治2[1363]年に薩摩国守護職を三男の師久に,大隅国守護職を四男の氏久に相続させた.
島津師久は上総介であったため総州家,島津氏久は陸奥守であったため奥州家と呼ばれることとなる.
第7代・島津伊久[1347-1407]・守久が対立すると,奥州家2代当主・島津元久[1363-1411]が仲裁に入る.その功績に報いて,総州家・島津伊久は奥州家・島津元久に薩摩国守護職を譲った.ここに,島津宗家の地位は総州家から奥州家に移ることになる.
しかし,奥州家・島津元久が応永18[1411]年に嗣子なく没すると,後継指名されていた甥・伊集院煕久が家督相続.これに異議を唱えた弟・久豊[1375-1425]は島津元久の位牌を奪取し島津宗家8代当主を宣言.島津久豊の許へは薩摩の一門・家臣と大隅国の肝付兼元ら反伊集院派が馳せ参じた.さらに,総州家・島津守久の子・島津久世[1397-1417]も島津久豊に加勢.
一時は伊集院頼久・煕久父子は劣勢に立たされるも,総州家・島津久世が島津久豊に反旗を翻したことにより膠着状態となる.ここで吉田清正が仲裁に入るが,奥州家・島津久豊が総州家・島津久世を謀殺.劣勢に立たされた伊集院頼久が隠居することによって両者の和睦がなった.
応仁の乱後,12代・島津忠治[1489-1515],13代・島津忠隆[1497-1519]が相次いで早世.このため,島津氏は弱体化を余儀なくされ,国衆の自立化が進んだ.
混乱の中,島津氏一門の伊作家・伊作忠良[1492-1568]と薩州家・島津実久[1512-1553]が台頭.第13代・島津忠隆が亡くなると,弟・島津勝久[1503-1573]が第14代島津家当主となる.但し,実権は薩州家の島津実久が掌握.これを嫌った第14代・島津勝久は伊作家・伊作忠良の子・島津貴久[1514-1571]へと家督を譲ろうとする.これに対して,薩州家・島津実久は第14代・島津勝久を追放.
伊作家・伊作忠良・貴久父子は南方衆と渋谷氏一族を味方に付け薩州家・島津実久から薩摩国守護職の座を武力で奪取.これに対し,天文10[1541]年,豊州家・島津忠広[1482-1551]と第14代・島津勝久の重臣の肝付兼演・本田薫親が叛旗を翻す.しかし,日向国伊東氏の侵攻が開始されると危機に立たされた豊州家は伊作忠良・貴久父子に保護を求め,天文22[1553]年には出水で抵抗を続けていた薩州家・島津実久が亡くなり跡を継いだ島津義虎[1536-1585]が臣従を表明すると,伊作忠良・貴久父子の地位は固まった.
第15代・島津貴久の嫡男の第16代・島津義久は日向国・伊東氏を日向国から逐い薩摩国・大隅国・日向国の三州統一を実現.1578[天正6]年には,耳川の戦いにおいて豊後国の大友宗麟を破り,1584[天正12]年の沖田畷の戦いでは肥前国の龍造寺隆信を破り九州全土平定までもうすぐというところまで突き進む.
ところが,大友宗麟が豊臣秀吉に嘆願し九州への出兵を求めると事態は急転.豊臣秀吉の大軍の前に,近衛前久による仲裁を受け入れ,薩摩・大隅2か国・日向諸県郡の安堵を受けた.
関ヶ原の戦いでは,第16代・島津義久の弟・島津義弘[1535-1619]は西軍に与したため,戦後,徳川家康によって島津討伐軍が組織されるも,島津義久らによる交渉により衝突は回避され本領が安堵された.