薩摩島津氏の一族・伊集院氏の家紋.
惟宗氏島津氏支族.
島津忠時の子・忠経[1202-1272]の子・俊忠が薩摩国日置郡伊集院地頭職を得たことが起源.伊集院氏は島津一族ではあるが,南北朝時代には伊集院頼久が総州家の島津守久・久世父子に与して渋谷五族[高城氏,東郷氏,祁答院氏,鶴田氏]と菱刈氏とともに島津宗家[奥州家]の島津久豊[1375-1425]と戦っている.この背景には奥州家の島津元久[1363-1411]の死後,後継者として弟・久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いをしたことに起因している.
伊集院頼久と島津久豊は応永24[1417]年に吉田清正の仲介を契機として和睦する.この和睦により伊集院頼久は子の伊集院煕久に家督を譲って隠居.
島津久豊が亡くなり,子の忠国が守護職を受け継ぐと,伊集院煕久の姉が島津久豊に嫁いだ時の化粧料であった石谷[鹿児島市石谷町]の地を町田高久に下賜.島津久豊も姉も既に世を去っていたものの,伊集院煕久はこの措置に反発.宝徳元[1449]年に一宇治城へと町田高久を呼び寄せて暗殺.この報復として島津忠国が一宇治城に攻め寄せ,伊集院煕久は肥後国へと亡命し,ここに伊集院家は,一旦,滅亡.後に,伊集院煕久の孫・久雄は島津家に帰参を果たしている.
一方,伊集院煕久の弟・倍久の系統は倍久の孫の忠朗・忠倉[ただあお]・忠棟と3代にわたって島津家の老中筆頭として活躍する.特に,伊集院忠棟は豊臣秀長の許に人質として送られていた経緯から,豊臣秀吉から日向都城八万石余を与えられた.こうした動きを警戒した島津家久は慶長4[1559]年に山城伏見の亭で伊集院忠棟を誅殺してしまう.その子・伊集院忠真は都城で島津家の軍勢を迎え撃つ準備を整えるが徳川家康の仲介によって衝突は免れた.しかし,関ヶ原合戦後に島津家久は伊集院忠真を攻め討ち取った.ここに伊集院氏は滅んだ.
伊集院氏の中で残った今給黎久俊の流れを汲む伊集院氏は激流を生き延び血脈を伝えた.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.