肥前国の戦国大名・千葉氏の家紋.
桓武平氏良文流千葉氏流.千葉氏第9代当主・千葉宗胤[1265-1294]が異国警固番役として九州に赴いたことが起源.千葉宗胤が九州にいる間に,弟の千葉胤宗[1268-1312]が下総国の千葉宗家を継いだ.千葉宗胤の子・胤貞は足利尊氏に付き,後醍醐天皇方に付いた千葉胤宗の子・貞胤とは千葉宗家の座を争った.千葉胤貞は勝利するも病没したため,肥前に残った弟・千葉胤泰は肥前千葉氏を立て,千葉貞胤の下総千葉氏とは別の道を歩むこととなる.
肥前千葉氏は戦国時代初期に千葉胤朝が暗殺されると,少弐政資の弟が千葉胤資として晴気城を本拠地とする西千葉氏[晴気千葉氏]を立て,千葉胤朝の甥の千葉興常が大内氏の支援を受けて千葉城を本拠地として東千葉氏[祇園千葉氏]を立てた.
やがて,大内氏により筑前国を追われた少弐氏が肥前に拠点を移すと,肥前千葉氏は被官化.東千葉氏の千葉喜胤が天文11[1542]年に亡くなると,少弐氏第16代・少弐資元[1489-1536]の子が千葉胤頼[1532-1559]として東千葉氏を相続.ここに,西千葉氏に次いで東千葉氏にも少弐氏の血が入ることとなった.少弐氏第17代・少弐冬尚[1510/1529-1559]が龍造寺隆信[1529-1584]と争うと,東千葉胤頼は兄である少弐冬尚に与した.龍造寺隆信は西千葉胤連[-1593]とともに,永禄2[1559]年に東千葉胤頼と少弐冬尚を滅ぼした.
以降,西千葉胤連は龍造寺隆信の事実上の庇護下に入った.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.