筑前国の国人衆である高橋氏の家紋.
大蔵氏流.筑後国御原郡高橋を発祥の地とする.高橋高種[1470-1515]は父の高橋顕種との不和により出奔.母親が畠山政長[1442-1493]の娘であったことから畠山氏を頼って室町幕府第9代将軍・足利義尚[1465-1489]に仕官.足利義尚の死後,堀越公方・足利政知[1435-1491]に請われて,伊豆国雲見城の城主として下向.足利政知の死後は伊勢宗瑞[1456-1519]の下にあった多目権兵衛尉に請われて伊勢宗瑞の麾下に加わった.その子・高橋種政は後北条氏第2代・北条氏綱[1487-1541]の養子として北条綱高[1506-1585]となった.
一方,筑前国にいた高橋高種の弟・高橋長種[-1549]は高橋氏の家督を相続し宝満屋形と呼ばれたが嗣子なく死去.高橋家の重臣である伊藤氏・福田氏の要請により,豊後大友氏第20代・大友義鑑[1502-1550]が大友氏庶流の一萬田親宗に高橋氏の名跡を継がせて高橋鑑種[1529-1579]とした.
天文22[1553]年正月,大友氏第21代・大友義鎮[1530-1587]は大友三老の一人・吉岡長増[-1573]の反対を押し切って,キリスト教布教を許したことに端を発して対立した一萬田鑑相・宗像鑑久・服部右京亮を討伐.一萬田鑑相を含めて一萬田一族は討死.高橋鑑種は親族を誅殺されてもなお大友義鎮に従った.しかし,永禄4[1561]年に,大友義鎮と毛利元就との間の第四次門司城の戦いで大友義鎮が敗れると,その翌年に毛利元就の調略を受け入れ大友義鎮から離叛.しかし,表面的には大友義鎮に臣従.永禄9[1566]年に高橋鑑種謀反の噂が広まり,大友義鎮が討伐の動きに出ると,その翌年,秋月種実・龍造寺隆信とともに大友氏に叛旗を翻した.毛利元就は宗像氏貞,筑紫惟門・筑紫昭門,原田隆種・親種親子を動員.大友義鎮は朽網氏,吉岡氏,豊後斉藤氏,蒲池氏,田尻氏,溝口氏,三池氏,問註所氏を動員して攻め寄せた.永禄12[1569]年に尼子義久の家臣・山中幸盛の躍動により,毛利軍は九州から撤退.
この結果,高橋鑑種は大友義鎮に降伏し隠居させられた.高橋氏の家督は吉弘鎮理[1548-1586]が高橋紹運として継いだ.
ところが,高橋鑑種の活動はその後も続き,天正6[1578]年には筑前の戦国大名・秋月種実の子である高橋元種を養子とした.関ヶ原の戦いで西軍に与し,途中で東軍に寝返り所領安堵されるも,坂崎直盛[1563-1616]と富田信高[-1633]との間の騒動に巻き込まれて改易.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.