三つ盛り撫子

筑前国の戦国大名である秋月氏の家紋.

秋月

東漢氏大蔵氏族.筑前国古処山城を本拠地とした.

大蔵氏の嫡流・原田氏の原田種直[1140-1213]は平家盛[1123/1127-1149]の娘[平重盛養女]を妻とし,平清盛[1118-1181]に仕えた.そのため,文治元[1185]年,壇ノ浦の戦いで平家が敗れると,源頼朝により所領は没収された.しかし,源頼朝を助けた池禅尼[1104-1164]の子・平頼盛[1133-1186]との関係からか,建久元[1190]年に赦免され筑前国怡土庄の地頭職に任ぜられ御家人に列した.

原田種直の子孫は鎮西大蔵朝臣六家[原田氏・波多江氏・秋月氏・江上氏・原氏・高橋氏]として繁栄した.秋月氏は原田種直の子・種雄が筑前国秋月荘を得て秋月と称したことが起源.秋月氏は鎌倉御家人であったとはいえ,鎌倉幕府によって鎮西御家人の抑えとして守護として派遣された少弐氏・大友氏・島津氏の勢力下に置かれた.

戦国時代の秋月氏は少弐氏の被官であった,しかし,天文5[1536]年,肥前多久城の戦いで,少弐資元[1489-1536]が大内義隆[1507-1551]が派遣した陶興房[1475-1539]と戦い自刃.秋月文種[種方;-1557]は大内義隆に従った.陶晴賢[1521-1555]によって,天文20[1551]年に,大内義隆が討ち取られる[大寧寺の変]と大友義鎮[1530-1587]に与した.ところが,弘治3[1557]年,毛利元就[1497-1571]が九州に進出すると秋月文種・晴種父子は毛利方に寝返る.これに対して,大友義鎮は立花道雪と臼杵鑑速を派遣し攻め寄せ,秋月文種・晴種父子は自刃に追い込まれた.これにより秋月氏は,一時,断絶し所領も家臣の深江美濃守が保持した僅かなものとなる.

一方,秋月晴種の弟・秋月種実[1548-1596]は毛利氏の元へと亡命.永禄2[1559]年,毛利氏の支援を受けた深江美濃守によって秋月種実は旧領に迎え大友軍を追放.秋月種実の弟・種冬[1549-1614]は高橋鑑種[1529-1579]の養子となり豊前国小倉城を守り,同じく弟・助盛[1550-1611]は豊前長野氏の名跡を継ぎ豊前国京都郡馬ヶ岳城を守り,秋月氏の全盛期を築いた.

永禄12[1569]年5月,大友義鎮と毛利元就が多々良浜の戦いで干戈を交え,大友義鎮が勝利を収めると秋月種実は大友義鎮の軍門に下った.ところが,天正6[1578]年の耳川の戦いで大友義鎮が島津義久[1533-1611]に大敗すると,龍造寺隆信や筑紫広門と同盟し,大友方から離叛.島津義久に属した秋月種実は筑前・筑後・豊前36万石を領するに至る.

豊臣秀吉による九州征伐時,豊臣秀吉のもとへ恵利暢堯を講和の使者として派遣したが,結局は島津方として豊臣秀吉軍と干戈を交えた.降伏後は日向国財部[高鍋]3万石に減移封.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.