豊後国の国衆である日田氏の家紋.
東漢氏大蔵氏族.豊後大蔵氏とも言われる.大蔵永弘[853-910]を家祖と伝える[『豊西記』].大蔵永季[1056-1104]は京の「相撲節会」への参加が知られ,日田神社に相撲の神として祀られている.
鎌倉幕府の御家人,室町幕府の奉公衆であった日田氏であったが,室町時代の日田永秀が亡くなり永包が家督を相続すると,日田永秀の弟・永好に命じられた今村左馬によって暗殺される.日田永好も家臣により殺害され大蔵姓日田氏は断絶.
日田家臣団は大友親隆[-1470]の子・親満を招請し大蔵永包の姉を妻として日田氏の家督を相続させた.日田永世である.日田永世の跡は大友親繁[1411-1493]の子の親常[日田六郎],次いで親有が日田氏の家督を相続.日田親有は大友政親[1444-1496]・義右[1459-1496]父子の内訌への介入のために豊前国へ出兵しようとしたが直前に暗殺された.日田親有には嗣子なく,大友親明の子の親賢が養子として継ぎ,その後の家督は日田親将[-1548]が承継.しかし,日田親将は失政により家臣団の離叛を招き,大友義鑑の命によって自刃.
以降の日田支配は大友義鑑が豊後大蔵氏一族八郡老[財津氏,豊後坂本氏,豊後石松氏,高瀬氏,豊後羽野氏,豊後堤氏,豊後佐藤氏,世戸口氏]を奉行職に任じて行われた.なお,日田親将の子・親永は大友義統[1558-1610]に仕えて豊臣秀吉による朝鮮出兵に参軍し陣没.大友氏改易後,その子は細川氏に仕えたという.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.