堀家[越後椎谷藩主家]

村松藩堀家の祖の堀直政[1547-1608]は本来,奥田姓であり,もともとは足利一門の斯波一族の流れを汲んでいます.堀直政は,堀秀政の従兄弟という関係にありましたが,堀家の家老となります.

この堀直政の流れを汲むのが,信濃須坂藩の堀家越後村松藩の堀家,そして,越後椎谷藩の堀家の三家.

椎谷堀家の初代の堀直之[1585-1642]は堀直政の子.1598[慶長3]年に主君の堀秀治[1576-1606]が越後入りすると8,000石の禄を得ます.しかし,越後福嶋騒動で1610[慶長15]年に堀秀治が改易されると,徳川家に直接仕える大名となった兄の堀直寄[1577-1639]のもとに身を寄せます.

その後,江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠[1579-1632]によって登用.1614[慶長19]年の大坂冬の陣,翌年の大坂夏の陣における戦功によって,武蔵八幡山1,000石を賜ります.さらに,越後椎谷に5,000石の加増.万石未満なので,この段階では未だ椎谷藩は成立していません.

1631[寛永8]年,堀直之は江戸町奉行に命じられます.翌年に,加賀爪上杉家第7代当主で同じく旗本の加賀爪忠澄[1586-1641]も江戸町奉行に命じられます.この時,堀直之の役宅は呉服橋,加賀爪忠澄の役宅は常盤橋にあったため,それぞれ来た町奉行,南町奉行と呼ばれるようになりました.

1633[寛永10]年,上総国夷隅・長柄・市原・埴生四郡のうち4,000石を加増,合わせて9,500石となり夷隅郡苅谷に陣屋を構えます.

1642[寛永19]年に堀直之が亡くなると,子の堀直景[1604-1675]が継ぎます.堀直景は自らの所領と父親から受け継いだ所領を合わせて上総苅谷藩を立てます.この時,弟の堀直氏に1,500石を分与しています.

堀直景の後は子の堀直良[1643-1691]が家督を承継します.陣屋を上総国市原郡八幡に移し,上総八幡藩を立てます.

堀直良の跡は子の堀直宥[1665-1711]が家督を継ぎます.堀直宥の代に,上総の飛び地を整理し,越後国沼垂郡・蒲原郡・三島郡に移り椎谷藩を立てるに至ります.その後,堀家は明治維新を迎えるまで椎谷藩の藩主としての座を保ちます.

堀一族の系譜

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.