上御霊神社


【2004/3/15】

早良親王こと崇道帝、吉備真備など13柱の神を祀っています。丁度、現在の京都御所を挟んで南に鎮座する下御霊神社と対になって都の怨霊神を鎮めることで御所を守護する役割を担っているのが上御霊神社。

上御霊神社は794[延暦13]年の平安京遷都の際に当時、怨霊として怖れられていた八柱を祀ったことが始まり。明治時代にさらに五柱を加えて現在に至っています。

この地は、臨済宗相国寺派の大本山相国寺のすぐ北に位置し、かつては御霊の杜と呼ばれた地でもあります。

1467[応仁元]年に応仁の乱の発端となった畠山政長と畠山義就との戦いが行われた地でもあります。この戦いが10年に及ぶ応仁・文明の乱を引き起こすことになります。清原宗賢の『宗賢卿記』の正月18日条には、「畠山右衛門佐[畠山義就]」と「尾張守[畠山政長]」が「家督相論」から「上御霊社において合戦」に及んだことが記されています。

上御霊社は南には相国寺の堀があり、西には細川の要害があったために籠城に適した地でした。ここに立て籠もったのが細川勝元の支援を得ていた畠山政長。

合戦は、「申の刻[pm4:00]より寅の刻[am4:00]」まで続き[『後法興院記』正月18日条]、畠山政長が敗れました。

この戦いの巻き返しのために、5月に細川勝元が決起します。

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