当時,武蔵国では秩父重隆は兄の秩父重弘を差し置いて家督を継いでいました.これに対して,秩父重弘の嫡男・重能と小山田有重兄弟は秩父重隆の家督承継に異議を唱えて対立していました.その中で,源義賢は秩父重隆の娘と結婚して上野国・武蔵国を勢力圏とします.そこで,畠山重能と小山田有重兄弟は源義賢と対立する源義朝と結び,源義平が京都に戻ると,その子の義平と組みます.そして,1155(久寿2)年8月16日に源義平とともに秩父重隆と源義賢のいる大蔵館を襲います(大蔵合戦).この戦いで秩父重隆と源義賢は討ち取られてしまいます.源義賢の子の駒王丸は長井別当斎藤実盛の手により乳母夫の信濃国中原兼遠のもとへと逃がされます.この駒王丸こそが後の木曾義仲.一方,源義平の弟が源頼朝ということになります.この2人の因縁はこの時に始まっていたのです.
1160(平治元)年1月19日の平治の乱で源義朝が討死すると,平清盛により秩父氏の家督は秩父重隆の孫・河越重頼に与えられてしまいます.
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