頼朝挙兵する

1180年8月17日。伊豆の源 頼朝は遂に挙兵する。以仁王の令旨を得てから考えに考え抜いた末の挙兵。その間にも、以仁王に令旨を迫った源三位頼政入道父子は京都は宇治の平等院で平家との壮絶な戦いで落命。以仁王も光明山の鳥居の前で流れ矢に当たって戦死していた。しかし、一度巻き起こされた反平家のうねりは止まることなく、以仁王が生きているという風聞を生みながら諸国へと伝播していった。殊に、関東の地ではかの平 将門以来の京からの独立志向が強く、先の平治の乱までは鎌倉の源氏の棟梁のもとで結束していたこともあって、この流れを好機と捉える武士達が多くいた。そして、遂にこの夜を迎えたのである。頼朝はまず山木判官散位兼隆を少数で討ち取った。その後、平家方に囲まれている狭い伊豆では不利と見て、北條の館を脱出。相模国土肥郷を目指し、土肥の軍勢を加えて、それでも僅かではあったが、石橋山に布陣した。山木判官が討ち取られたことを知った平家方は、大庭三郎景親、俣野五郎景久、梶原平三景時、曽我太郎助信ら約3000騎の軍勢で押し寄せる。頼朝の軍勢は約300騎であるから、頼朝はこの時点で何と10倍の兵力と向き合わざるを得ない状況に置かれたことになる。とはいえ、頼朝が無謀な挙兵を行った訳では決してない。源氏譜代の三浦一族が大軍を率いて加わることになっていたのである。三浦一族の軍が合流すれば平家方の鎌倉党大庭氏が率いる約3000騎馬と少なく見積もっても互角、いや数の上で上回ると考えていた。ところが大風のために三浦の軍は渡河することが出来ず対岸の頼朝を目の前にして地団駄を踏み平家方の所領に火を放った。これを見た平家方の大庭軍は三浦軍の合流を恐れるとともに、自らの所領が赤く染まることに怒りを顕わにして一気に頼朝軍を四方から攻撃した。300騎を3000騎が襲ったのだ。頼朝軍がいくら精鋭だったとしても勝ち目はない。戦いの最中に、佐奈田与一、武藤三郎が落命。頼朝自身は椙山に逃れて命を繋ぎとめた。それでも周囲は平家方ばかり。あちこちで残党狩りが行われる。頼朝も危なかったが密かに心を寄せる平家方の梶原平三景時の機転によって見逃される。やがて、散り散りになっていた北條時政、土肥実平、近藤七国平、岡崎四郎義実らが再び頼朝と合流。三浦一族と縁のある安房国へと真鶴から出航する。安房国では三浦半島の拠点を平家方の秩父党の畠山重忠に落とされていた三浦介義澄らが出迎えた。安房には小山、豊嶋、下河辺らの源氏ゆかりの人々が次々と頼朝のもとへと馳せ参じた。頼朝は戦さに敗れたものの、甲斐源氏の武田太郎信義、一条次郎忠頼が蜂起するなど、諸国の源氏は健闘していた。そして、千葉介常胤も300騎を引き連れて頼朝の軍勢に加わった。これで頼朝に従う軍勢は約600騎。しかも、二心なき600騎を手に入れた。

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