中でも、山内滝口三郎経俊は共に鎌倉に居を定めるほどの譜代の家柄であったにも関わらず、大庭景親とともに石橋山で頼朝と対峙した。しかも、経俊の母親は頼朝の乳母の一人。
後に、大庭景親、長尾兄弟らとともに頼朝に降伏。譜代中の譜代でありながら刃向かったということで斬罪は免れようもなかった。早速、鎌倉の山内荘が没収され経俊の身柄は土肥実平に預けられる。
自分の息子が斬られると聞いて焦った老婆は鎌倉殿となった頼朝に、
「山内資通は八幡太郎義家殿に仕えて以来、山内家は譜代中の譜代の家柄。資通の子の俊通は平治の乱において六条河原で義朝殿のために尽力。息子の経俊が平家方の大庭景親に与したとは言っても、それは成り行きで致し方なかっただけのこと。それに、多くの降人が許されている中で、どうして譜代中の譜代の家柄の息子が殺されなければならないのでしょうか」
と声を上げて泣きながら鎌倉殿に訴える。鎌倉殿は黙って聞き終わると土肥実平を召して鎧を持ってこさせた。そして言う。
「この鎧は石橋山の合戦で身に着けていたもの。この鎧の袖に矢が打ち込まれているであろう。とくとご覧になるが良い。その矢の口巻(くつまき)には確りと滝口三郎藤原経俊と書かれておろう」
こうまで証拠を示されては老婆は重ねて訴えることは出来なかった。譜代中の譜代の家人が主人に対して矢を放っていたのである。ただの矢ではない。その矢は鎧を貫き、もしかすると頼朝の命を奪っていたかもしれない矢だったのだ。
結局、頼朝の憐憫の情によって経俊は許されたことで、頼朝への信頼は一段と高まった。
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.