1573(元亀4)年に武田信玄が三河に遠征中に死去すると勝頼は武田家を継ぎます.しかし,武田家中には諏訪家出身の勝頼に反発する向きが少なくなかったと言います.
武田勝頼はそうした負い目を拭うように,遠江高天神城や美濃明智城を落とし,父親の武田信玄以上の働きをし,織田・徳川連合軍と伍していきます.
しかし,1575(天正3)年,徳川家康は武田方の山家三方衆の一画であった奥平信昌(1555〜1615)を調略.武田信玄の死後,徳川軍は武田方の山家三方衆・長篠菅沼家の菅沼正貞の三河長篠城を攻略していました.徳川家康は奥平信昌を長篠城を守らせます.
奥平信昌の離反を知った武田勝頼は1万5千の大軍を率い出陣しますが,一気に長篠城を落とすことは出来ませんでした.そこで,武田勝頼は鳶ケ巣,久間山,中山,姥ケ懐の5砦を築城して長篠城を包囲.その上で,浜松城と岡崎城の分断を図るために二連木城,牛久保城を攻撃し落城させ,続いて,織田信長の援軍を待つ徳川家康が入っていた三河吉田城を攻撃します.徳川家康は織田信長本隊を待ち籠城したため,武田勝頼は三河吉田城を攻略するのは無理と判断し再び長篠に戻ります.そして,本格的な長篠城攻撃を開始します.その後,織田信長・徳川家康連合軍は長篠城からの使者・鳥居強右衛門の報告を受け,奥平信昌を救援すべく後詰として長篠に出陣し,武田軍と設楽原で対峙.この時,酒井忠次は分遣隊を率いて鳶ケ巣山砦を襲い,武田軍の補給路を断つことを進言.この進言が受け入れられ,酒井忠次は金森長近とともに,武田勝頼の叔父・武田(河窪)信実(〜1575)の守る鳶ケ巣山砦を落とします.鳶ケ巣山砦落城を契機として武田5砦は次々に落城.守将の武田(河窪)信実,三枝昌貞は討死.酒井忠次隊は有海村駐留中の武田支軍をも壊滅させ長篠城の奥平信昌軍と合流し,武田勝頼軍の退路を完全に断つ形となります.
長篠城を包囲していた5砦の武田軍敗残兵は武田本隊への合流を目指すも掃討されます.
同じ頃,山県昌景・馬場信房・内藤昌豊・小山田信茂らは兵力差を考慮し甲府への撤退を主張します.一方、武田勝頼側近の跡部勝資は,いずれにしても決戦は避けられないため,今こそ決戦に踏み切るべきと主張.結局,武田勝頼は親族衆・宿老の反対を押し切り決戦を仕掛けます.
山県昌景・馬場信房・武田信豊・小山田昌行は大通寺で別れの盃を交わし,山県昌景は隊を率いて織田・徳川連合軍へと突撃を敢行します.織田信長・徳川家康連合軍は石川数正,榊原康政,本多忠勝らが陣城から山県昌景,小幡信貞,武田信豊隊を迎え討ち撃退.馬防柵を出た大久保忠世・忠佐兄弟を陽動作戦と知らずに攻撃した山県昌景隊は竹広にて鉄砲の標的となって壊滅.山県昌景も討死します.続いて,武田信廉隊,内藤昌豊隊が滝川一益隊を攻撃するも,武田信廉は壊滅状態となり撤退.内藤昌豊隊は本多忠勝隊,榊原康政隊,大須賀康高隊の餌食となり,内藤昌豊は討死,隊も全滅.
西上野衆兵3千の3番隊を率いた小幡憲重も突撃を敢行し討死.一連の戦いと織田・徳川連合軍による追撃戦の中で,原昌胤,甘利信康,土屋昌次も命を落とします.
信虎・信玄・勝頼の武田家3代に仕え武田4名臣と呼ばれた馬場信房は武田軍が壊滅状態となったため,これ以上戦うことは無理と判断,武田勝頼を田峯城へと落ち延びさせるために,追撃してくる織田・徳川連合軍を一手に引き受け討死します.真田信綱・昌輝兄弟もこの戦いの中で討死しました.
武田勝頼は田峯菅沼氏の菅沼定忠に守られ武節城を経て伊那へと退却します.
武田勝頼が長篠の戦いで大敗北を喫すると三河の武田勢は一掃されます.さらに,織田信忠によって東美濃岩村城が攻略され伊那郡代・秋山虎繁が処刑.徳川家康も遠江国二俣城を攻め依田信蕃を下します.
続いて,徳川家康は諏訪原城をも落とし,武田勝頼方の岡部元信が城将を務める高天神城を包囲すべく横須賀城を築城し武田軍の補給路を断ちます.1580(天正8)年10月,包囲網を完成させた徳川家康は遂に高天神城に攻めよせます.補給路を断たれていたために落城は必至と考えた城将・岡部元信(〜1581)は武田勝頼に援軍を求めます.ところが,武田勝頼は駿河の北条氏政との戦いのためと,織田信長との全面対決を避け和睦の機会を探っていたために,援軍を派遣しませんでした.このために,高天神城は落城し岡部元信も討死,城兵の殆どが討ち取られます.
武田勝頼が高天神城への援軍を出さなかったことは大きな影響を与え,武田家に仕えていても守っては貰えないという疑心暗鬼を醸成してしまいます.この結果,木曾義昌,穴山信君,小山田信茂が離反への機会を探り始めます.名門武田家の内部崩壊が始まったのです.
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.