建久元(1191)年

1月

15日 公文所を政所と改める | 17日 伊勢・志摩の平家没官領に平 盛時と武藤資頼を巡検使として派遣。

平 盛時

平盛時は大江広元とともに源頼朝の右筆を務めた人物。養和元(1181)年に近衛基実の娘通子の侍始の所司を務めたことが知られているが、その後、鎌倉に下向。問注所別当・三善康信の補佐も担った。なお、頼朝死後は、第2代将軍源頼家、第3代将軍源実朝の政所で執務した。
伊勢平氏の祖・平維衡の子・平正度(まさのり)の流れを汲み、通称は平五。

3月

4日 鎌倉小町通りから火の手が上がり大火災となる。源 頼朝(鎌倉殿)は甘縄の安達盛長邸へ

4月

近江守護佐々木定綱が比叡山延暦寺衆徒と小競り合い

5月

鎌倉幕府、佐々木定綱を解任。佐々木定重を梟首にする

建久2年の強訴

佐々木定綱は、近江国の佐々木氏の棟梁・佐々木秀義[1112-1184.08.26]の嫡男。父親の佐々木秀義は、保元・平治の乱の両方で源義朝に仕え、平治の乱の敗戦時に伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州に落ち延びる途中、相模の渋谷重国に引き留められ庇護を受けた。

佐々木定綱、経高、盛綱、高綱の佐々木四兄弟は源頼朝の挙兵に加わり、戦功により近江、長門、石見、隠岐の守護に任ぜられた。

そのうち本領である近江佐々木荘内には延暦寺の荘園である千僧供荘があった。そのため、佐々木定綱は延暦寺に対して千僧供料を納める必要があった。しかし、建久2(1191)年は前年の水害の影響で納めるべきものを納めていなかった。

そこで、日吉社の宮仕らが神鏡を掲げて佐々木邸に強訴に及んだ。佐々木定綱の次男・定重は小競り合いの際に神鏡を破損。このことが朝廷・幕府を巻き込んだ大事件へと発展。延暦寺大衆が佐々木定綱の死罪を求めて閑院内裏に強訴。北条時定、佐々木高綱、小野成綱、安田義定らの軍勢が防衛線を張るも突破された。

後白河法皇は延暦寺大衆の訴えた佐々木定綱死罪は拒否し、父子の流罪とすることで決着を図った。

なお、神鏡を破損した佐々木定重は配流の途中で梶原景時によって斬首され梟首されたことで、延暦寺側の怒りは収まることとなった。

6月

源頼朝[鎌倉殿]の周旋によって一条能保の娘と九条兼実の子の良経が結婚する | 25日 後白河法皇の皇女、覲子内親王に宣陽門院院号の宣下。同時に生母の丹後局が従二位となる

7月

28日 鎌倉大火災で類焼した鎌倉幕府の建物が建て直される

11月

鶴岡八幡宮落慶

12月

九条兼実が関白となる

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