28日 京都守護一条能保が従二位に叙せられる
畠山重保が武蔵七党の児玉党の内紛を収拾
叔父・藤原道長と藤原氏長者の地位を争った内大臣藤原伊周[974-1010.2.14]が失脚すると、その家令であった有道惟能は長徳元[995]年2月に武蔵権介に任ぜられ武蔵国に下向。解職後も武蔵国に留まり児玉郡を開墾し児玉党の祖となった。
有道惟能の子・惟行は児玉氏を名乗り、児玉郡大寄郷若泉庄の阿久原の別当として在地豪族化した。児玉惟行の嫡男・弘行は後三年の役[1083-1087]に従軍。その子・児玉家行、あるいは、その子・家弘の代に児玉郡大寄郷若泉庄の栗崎村に栗崎館を構え庄氏と名乗った。
庄家弘の子・庄家長は梶原景季[1162-1200.02.06]とともに、平清盛の五男・平重衡[1157-1185.7.21]を須磨ノ浦海岸で捕縛したことが知られている。
建久4[1193]年2月9日、同じ武蔵七党の丹党との間で所領を巡る確執から一色触発の事態が勃発。畠山重忠・重保父子の仲裁によって大規模な軍事衝突には至らなかった。
なお、児玉党の惣領家である庄氏は、庄家長の嫡男・庄頼家[-1184]は一ノ谷の戦いの時に討死。庄頼家の弟・家次が兄・頼家の妻・妙清禅尼の養子となって庄氏を継承。そして、庄家次は戦功によって備中草壁荘地頭職を得ると栗崎館を去って備中入りし備中庄氏の礎を築いた。栗橋館は弟・時家が残って守ることとなった。この時家が本拠地に残った庄氏という意味で本庄氏を名乗ることとなった初代である。
平 時定が京都にて逝去
奈良の東大寺に備前国から、京都の東寺に播磨国から造営費を支出する
8日 源 頼朝(鎌倉殿)が富士野で狩りを催す | 16日 梶原景高が源 頼家の鹿狩りを北条政子に報告 | 28日 曾我兄弟が工藤祐経を討つ。この時、富士野は混乱し鎌倉殿落命の誤報も飛ぶ。鎌倉で留守を守っていた範頼が北条政子に自分がいるから心配しないようにとの言。後に、この言葉が禍いをもたらす
鎌倉幕府が宋銭の流通を停止する
17日 鎌倉殿が弟の範頼を謀反の疑い有りとして伊豆に追放し誅する
畿内の御家人に宣陽門院の警護を命じる
建久3[1192]年1月に後白河院[1155/08/23-1158/09/05]から院御所六条殿内に建立された持仏堂である法華長講弥陀三昧堂[長講堂]と、保元の乱で敗死した悪左府・藤原頼長[1120/05-1156/08/01]の没官領から始まった42ヵ国89ヵ所の長講堂領を相続した。
別当は村上源氏の内大臣右大将・久我通親[1149-1202/11/07]
比叡山延暦寺衆徒と争って解任されていた佐々木定綱を再び近江守護とする
源頼朝(鎌倉殿)が源家一門の源家一門の安田義資を誅する。また、安田義定の所領を没収する
源清光の父・義清は常陸国那珂郡武田郷を本拠地として武田冠者を名乗った。大治5[1130]年、源清光は領地の境界線を巡って平清幹の嫡男・大掾盛幹と軍事衝突。敗れて、勅勘によって甲斐国巨摩郡平塩岡に移された。
これは罪科を得ての配流ではなく、常陸国での大掾盛幹らの国衙勢力との本格的な衝突を回避するための措置だったと言われている。移された甲斐国の知行国主は、源義光が仕えた六条顕季[1055-1123/09/27]の子・長実[1075-1133/09/19]だったことは、源清光が甲斐で勢力を拡大させていくことに十二分に役立つことになる。
なお、平清幹は常陸平氏にして源義光の郎党。源義清と佐竹氏の祖・源義業[1077/1133/04/04]は兄弟であり、源義業は平清幹の娘を妻としているという関係にあった。
甲斐国を新たな本拠地とした源義清は甲府盆地東部に進出。その子・義定は保田に館を構えて旧族の安田氏の名跡を承継した。
富士川合戦の戦功によって、安田義定は源頼朝より遠江国守護に任ぜられた。
安田義定の子・安田義資[-1193/11/28]は建久4[1193]年11月27日の永福寺薬師寺堂供養の際に参列した女房衆の一人にラブレターを出す。これを同じ女房衆で梶原景季の妾が梶原景季に密告。翌28日に、源頼朝の命によって加藤景廉[1156-1121/08/21]により斬首された。安田義定は遠江国守護職を解職され所領没収。
さらに、翌建久5[1194]年には謀反の疑いか掛けられ、梶原景時と加藤景廉が追悼使として派遣。甲斐の馬木庄大井窪大御堂こと法光寺[放光寺]において自害した
なお、加藤景廉の子・景朝は岩村城を本拠地として遠山氏の祖となっている。
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.