橘 兼仲の妻が故後白河法皇のお告げを受けたと触れ回り罰せられる
天台座主承仁法親王[梶井宮]が薨去
源頼朝[鎌倉殿]の娘の大姫[1178-1197/08/28]が逝去
和議の一環として、木曽義仲の嫡男・義高[1173-1184/06/06]と婚約。しかし、後に、源頼朝と木曽義仲は決裂し、寿永3[1184]年に木曽義仲は源範頼・義経の軍勢により攻められ、今井兼平らを引き連れ京都を逃れ北陸に落ち延びようとしたところ、近江において一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇し、粟津の戦いで討ち取られた。
源頼朝は鎌倉にいた木曽義高の殺害を決めると、義高は側近の海野幸氏を身代わりとして鎌倉を脱出。源頼朝は堀親家[-1203/10/11]に命じて追討する。
父による婚約者・木曽義高殺害に衝撃を受けた大姫は病に臥せり、後鳥羽天皇への入内の話もあったものの、病が癒えることはなく早世した。
10日 後鳥羽天皇[尊成]に守成王[順徳天皇]が誕生
13日 京都守護一条能保[1147-1197/11/23]が逝去
藤原通重の死後、能保は通重の母の大蔵卿源師隆の娘である上西門院乳母に引き取られ、一条室町邸で成長した。
この縁にて、徳大寺家出身で近衛天皇皇后、二条天皇后であった太皇太后・藤原多子[1140-1202/01/19]に仕え、源頼朝の同母姉妹の坊門姫を妻とした。
寿永2[1183]年に木曽義仲の占領下の京都を脱出し鎌倉に下向。源頼朝の信頼を得て、後には、北条時政の後任として京都守護となった。
源頼家が従五位下右近衛少将に任じられる
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.