建仁の乱 かつて梶原景時[1140-1200/02/06]に預けられていた城 長茂[1152-1201/03/28]が京都大番小山朝政[1158-1238/05/15]の三条東洞院邸を襲撃。二条殿にも押し寄せ後鳥羽上皇に鎌倉討伐の宣旨を迫るも失敗。
建仁の乱
1199年2月9日[建久10年1月13日]、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が亡くなると、その腹心だった梶原景時は御家人66名による糾弾を受け鎌倉から追放。
追放された梶原景時は本拠地である寒川に立て籠もった後、復権を目指して一族を率いて上洛を図る。しかし、駿河国清見関で在地の御家人である吉川友兼の他、廬原小次郎、工藤八郎、三沢小次郎、飯田五郎家義、矢部家綱、船越三郎らによる幕府追討軍によって討ち取られる。
かつて平家方であったが、梶原景時の庇護を受け、御家人に加えられた城長茂は、1年後の1201[建仁元]年に上洛し、大番役として在京していた梶原景時追放の首謀者・小山朝政邸を襲撃。続いて、二条東洞院殿の土御門天皇[為仁;1196/12/23-1231/11/6]に鎌倉幕府追討の宣旨を要請するも拒否され清水坂に、一旦、引いた後、吉野山に逃れた。
京都守護の要請によって後鳥羽上皇が城長茂追討の宣旨が下され、吉野に逃れていた城長茂、その郎党・新津四郎が鎌倉幕府軍によって討ち取られた。続いて、城資家・資正兄弟が討ち取られ、一党に加わっていた藤原高衡[-1201/04/04]も同じく討ち取られた。
藤原高衡は奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の四男。兄の藤原泰衡[1155-1189/10/14]が討った源義経[1159-1186/06/15]の首を鎌倉に届けた人物としても知られる。奥州合戦が行われ、次々と兄たちが討ち取られる中、藤原高衡は下河辺行平[?-?]に降伏。相模国へと流罪となり梶原景時の庇護を受ける。その後、旧奥州藤原氏領である気仙郡や本吉郡を幕府から任されている。藤原高衡は一旦は唐橋[信濃]小路の藤原範季[1130-1205/05/30]邸に匿われるも、城一派によって連れ戻され、最後は鎌倉幕府軍によって討ち取られた。
4日 吉野の潜伏していた城 長茂らが誅される
城長茂の甥の城資盛が叔母の板額御前ととも越後鳥坂城で挙兵
鳥坂城の戦い
倒幕計画に失敗した城長茂が鎌倉幕府軍に討ち取られると、妹で越後国奥山荘飯角にあった板額御前[?-?]と城長茂の甥である城資盛[?-?]が越後で挙兵。
鎌倉幕府は佐々木盛綱[1151-]を大将として軍勢を派遣。
叛乱軍は善戦するも、藤沢清親の放った矢が板額御前の脚を貫き、板額御前は捕虜となる。これにより、越後鳥坂城の反乱軍は総崩れとなり、城資盛は城を出て行き方知れずとなった。
幕府軍は叛乱軍を鎮圧し、捕虜となった板額御前は源頼家[1182/09/11-1204/08/14]の命によって、甲斐源氏の浅利義遠[1149-1221]の妻となった。
14日 佐々木盛綱から城氏叛乱鎮圧の報せが届く。これにより越後の名門城氏が滅ぶ
後鳥羽上皇が源 頼家の要請によって蹴鞠の名手である紀 行景を鎌倉に下向させる
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