22日 第3代将軍源実朝が従四位下に叙せられる
7日 摂政九条良経[1169-1206/04/16]が逝去する
20日 第2代将軍源頼家の遺児善哉を第3代将軍実朝の猶子とする
源善哉/源公暁[1200-1219/02/13]
第2代将軍源頼家と比企能員の娘との間に生まれる。足助[賀茂]重長の娘・辻殿[源為朝の孫]との間に生まれたとも[吾妻鏡]。三浦義村を乳母夫として養育される。
1211[建暦元]年9月15日に、鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家し公暁という名を授けられた。
出家後、上洛し園城寺において、村上源氏の中院右少将源憲俊の息子である明王院公胤[1145-1216/08/05]の門弟となる。
定暁が没すると、北条政子に鎌倉に呼び戻され、1217[建保5]年6月20日に鎌倉に入り鶴岡八幡宮寺別当に就任した。
公暁が第3代将軍源実朝を討ち取ったのは1219[建保7]年1月27日。
討ち取った後に、乳母夫の三浦義村に将軍就任の用意を命じるが、三浦義村は郎党の長尾定景に命じて公暁を討ち取らせた。
平重国と湯浅宗重の娘との子である明恵[1173/02/21-1232/0211]が京都栂尾に高山寺を建立する
栂尾山高山寺[京都]
三尾の一番奥まった所にあるのが高山寺。このお寺、なんとアッシジの聖フランシスコ教会と兄弟教会。キリスト教と仏教の間にである。これは、高山寺を復興した明恵上人と聖フランシスコが同時代の人であり同じく清貧を貫いた人であったのが縁となったのだという。
高山寺は初めは神願寺都賀尾坊という名称で814[弘仁5]年に開かれた。
その後、後の第12代天台座主法性坊尊意僧正が修行するなど栄えたが、時代とともに寺勢が衰えた。それを平重国の子である明恵上人が復興した。この復興には後鳥羽上皇を始め近衛、鷹司、西園寺家などの名門諸家が帰依し与力した。そして、神願寺都賀尾坊は後鳥羽上皇の院宣によって1206年に日出先照高山之寺という勅額を得て高山寺と名を変えた。特に、近衛、鷹司、西園寺家等の藤原氏一門の帰依を得たことの影響は少なくなく、また藤原一門も氏神である春日大社や氏寺と同格の扱いを以って寺を保護した。
しかし、応仁の乱以降の兵乱によって多くを失った。江戸時代の1636[寛永13]年に永弁・秀融上人による再興、明治の再興を経て現在に至っている。
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