八幡太郎として知られる源義家の子の義国と義国の次男である義康の2代にわたって造営された足利氏宅の跡に立つ。ちなみに、義康の兄の義重は新田氏の祖である。義康の第3子である義兼が晩年に自らの邸宅内に七堂伽藍を建立したことが鑁阿寺の始まりとされている。
義兼は初めての武家政権、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の従弟であるとともに、北条政子の妹である時子を妻としており、頼朝と同じ源氏一門として幕府の一翼を担った。
こうした関係から、頼朝の嫡流が途絶えると、足利家は自らを源氏の嫡流と見做し、義兼6世の孫、高氏の代になって、政権を北条氏から奪って室町幕府を創設することになる。
鑁阿寺は金剛山仁王院法華坊鑁阿寺というのが正式の名称。その山号にあるように、最初は高野山の末寺として始まり、室町から江戸にかけては京・醍醐寺の傘下に入り、江戸後期からは大和・長谷寺の下にあった。しかし、終戦とともに、独立し真言宗大日派を興して現在に至っている。
様々な寺の流れを受けているようではあるが、鑁阿寺は一貫して足利家由来の寺であり、足利家揺籃の地の面影を伝えている。この日は、足利学校から鑁阿寺へと足を伸ばした。学校の門の前を横切る細い路地を進むと山門の前の広い道に出る。そこから曲がると、山門が正面に見えてくる。その有様は寺ではない。境内の周囲に堀を巡らし、山門までは堀に橋が架かっているところなどは、なるほど中世の平城の跡、そのままと言える。
経堂は、1407[応永14]年、鎌倉公方足利満兼が再建したもの。
本瓦葺、重層宝形造り。国指定重文。この形を見て、金閣・銀閣を思い浮かべたのは私だけだろうか。経堂の中には京・等持院と同じく歴代足利将軍の木像が安置されています。但し、こちらは15代全て揃っています。
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