天文10[1541]/慶長5[1600]-07-19.三河刈谷城,尾張緒川城主,伊勢神戸城主.母は青木弌宗の娘である華陽院.正室は都筑吉豊の娘.
当初は兄の水野信元の家臣であった.永禄4[1561]年,三河岡崎城の松平元康[徳川家康]の麾下に入る.本能寺の変の際には織田信忠に従い,その後に同じく織田信長の子である北畠信雄に属した.
北畠信雄が豊臣秀吉と講和すると豊臣家の家臣となり,同じく徳川家康に属していた石川数正と共に武者奉行に任ぜられた.
天正18[1590]年の小田原の役の後に,伊勢神戸城に移封.
慶長5[1600]年,三河国池鯉鮒において堀尾吉晴を歓待した際,口論が元で加賀井重望により殺害された.一説に,加賀井重望は石田三成から諸将の西軍への勧誘の命を受けていたともいう.
水野忠重の子の勝成は徳川家康に属した.