大内教幸

出生:不詳.没年:文明4[1472]-01-25.多々良姓大内氏.周防・長門国守護職大内持盛[山口持盛]の子.

大内盛見が筑前において少弐満貞大友持直と所領争いを展開し戦死.大内家の家督は甥の大内持世持盛兄弟が争う.結果,大内持盛は一時は領国を制圧する勢いであったが,敗れ豊後国篠崎において討死.

家督を勝ち取った大内持世は,嘉吉元[1441]年に播磨・備前・美作守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱に巻き込まれ死去.

大内盛見の子で,大内持世の養嗣子となっていた大内教弘大内家を相続し幕命を受け軍勢を率いて赤松氏討伐を行う.この段階で既に大内教幸大内持世教弘ラインと対立していたと考えられている.嘉吉2[1442]年には,室町幕府管領畠山持国による少弐教頼大内持直大内教幸の追討が命じられている.但し,その後,赦されて家中に復帰.

寛正6[1465]年,大内教弘が世を去り,その子である政弘が家督を相続.応仁元[1467]年,応仁の乱が勃発.大内政弘は西軍として上洛.その留守を預かった.ところが,文明2[1470]年2月に東軍に与する室町幕府8代将軍足利義政大内教幸[道頓]を大内家の当主と認める.これを受けて,大内教幸内藤武盛仁保盛安吉見信頼周布和兼を味方として挙兵し家中を掌握.これに対して,周防留守居役陶弘護は叛旗を翻し,激戦の末に大内教幸[道頓]の軍勢を討ち破る.

大内教幸[道頓]は豊前国へと落ち延び豊前国馬ヶ岳城において自害したという.

系譜

略系譜



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