厚谷 Atsuya

概略 Summary

北海道の渡島の比石館[北海道檜山郡上ノ国町館野]の館主家.

1441[嘉吉元]年に,対岸の青森は下北の田名部から畠山重忠の末裔とされる厚谷右近将監重政が渡道.現在の石崎の集落内を流れる石崎川[早川]の河口南端に館を建てた.

比石館は道南十二館の一つ.

1457[長禄元]年に勃発したコマシャインの戦いによって,比石館は落城し,厚谷重政も討ち死に.

その子孫は後に松前藩に仕えた.

道南十二館

1454[享徳3]年,南部氏の圧迫によって安東政季は武田信広らとともに渡道.北海道に活路を見出さんとした.そして,家臣を十二館に配置.これが十二館の起源.

安東氏宗家の安東政季[下国家当主]は分家である秋田郡領主・秋田城介安東尭季[惟季]の招きに応じ,1456[康正2]年に内地南遷.この際,下国守護・安東家政,松前守護・下国定季,上国守護・蠣崎季繁を守護として北海道の地に留め置いた.

コシャマインの乱

1457[康正3;長禄元]年に勃発した渡島半島東部のアイヌの首領コシャマインによる武装蜂起.

和人の鍛冶屋が取引上の諍いからアイヌ男性を殺害したことが端緒.志濃里に結集したアイヌ軍は小林氏が館主である志苔館を落城させたことを皮切りに快進撃.怒涛の勢いで道南十二館のうちの10館を落城させるまでに至る.

しかし,1458[長禄2]年に,上国守護・蠣崎季繁の婿養子であった武田信広[1431-1494]が反転攻勢を仕掛け,七重浜においてコシャマイン父子を射殺.アイヌ軍は崩壊し和人側の勝利となった.