糟屋 Kasuya

概略 Summary

左大臣・藤原冬嗣の三男の藤原良方の子の元方が,相模国大住郡糟屋荘[神奈川県伊勢原市糟屋]に土着し糟屋を称したことが起源とされる.但し,元方というのは前九年の役で源頼義に従った佐伯元方であるとも考えられ,この佐伯元方が何らかの縁によって藤原氏を名乗ることになったとも言われる.

つまり,糟屋氏は藤原北家の流れを汲むと言われるが佐伯氏であった可能性がある.

それはともあれ,糟屋盛久の時に治承・寿永の乱で活躍.その子・有季も鎌倉幕府において御家人仕えた.

糟屋有季は比企氏の女婿であったため,比企能員の変において鎌倉幕府執権の北条氏に敗れ討伐されるに至る.比企の乱に連座する形とはなったものの,糟屋一族は族滅した訳ではない.しかし,関東に留まることは許される訳もなく,本拠地である相模国大住郡糟屋荘を引き払って京へと落ち延び,後鳥羽上皇に仕えることで命脈を保つこととなった.

ところが,承久3[1221]年,後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権・北条義時に対して挙兵.承久の乱が勃発する.糟屋有季の子供達は,この承久の乱において京方として幕府軍と再び戦い,そして再び敗れる.この承久の乱において糟屋有季の子供達は討ち死にしたと伝わる.

糟屋有季 Kasuya Arisue

?-建仁3年9月2日[?-1203年10月8日].

相模国大住郡糟屋荘の荘司・糟屋盛久の子.父の盛久は源頼朝の挙兵時の石橋山の戦いでは大庭景親が率いる平家軍に従軍.いつの時点で,源頼朝に臣従したかは定かではないが,寿永2[1183]年には源義経が率いる源[木曽]義仲討伐軍に従軍し宇治川の戦いを戦っている.

文治2[1186]年に源義経が兄の源頼朝から追討を受けると,比企朝宗率いる源頼朝軍に属し義経方の佐藤忠信,堀景光を捕縛.源頼朝が亡くなった後の梶原景時の変においては景時方の安房判官代源隆重を捕縛する功を挙げている.

しかし,建仁3[1203]年,2代将軍源頼家の外戚である比企能員とその一族の台頭に危機感を抱いた北条時政が天野遠景,仁田忠常に命じて比企能員を暗殺.これに反発した比企一族が源頼家の子で比企の血を受け継ぐ一幡の住む小御所に立て籠もる.この事態を幕府を揺るがす一大事と判断した北条政子が比企一族の討伐を命じる.いわゆる比企能員の変である.謀略によって暗殺された側が秩序を乱したとして討伐されることになった訳である.この討伐命令に従った御家人も多かったが,能員の娘婿だった糟屋有季は比企一族に荷担し討ち死.

糟屋有季の子の有久らは一条高経の側室となっていた姉妹を頼って京へと落ち延びた.