河内源氏 Kawachi Genji

概略 Summary

鎌倉幕府を樹立した源頼朝に繋がるげ一門.清和源氏経基流の源満仲の三男の源頼信が河内国古市郡壷井[大阪府羽曳野市壷井]を本拠地としたことが始まり.なお,源頼信の長兄の源頼光は摂津源氏の祖となり,次兄の源頼親は大和源氏の祖となった.

源 頼信 Minamoto no Yorinobu[968-1048]

平忠常の乱を平定したことで武家の棟梁としての名声を得ることとなる.

源 頼義 Minamoto no Yoriyoshi[988-1075]

長元元[1028]年6月に平忠常の乱が勃発すると鎮圧に失敗した平直方に代わって,平忠常が父・源頼信の家人であった関係から長元3[1030]年に朝廷より討伐を命じられる.この乱を鎮圧したことに感銘を受けた平直方は源頼義を婿として迎え,自分の鎌倉の所領を相続させた.これが後の河内源氏飛躍の第一の遠因となっていく.第二の遠因としては小一条院敦明親王の判官代となったことが挙げられる.

さらに,陸奥守在任時に勃発した阿久利川事件を契機とする前九年の役で安倍氏を滅亡させたことで武名を高めることとなる.

●源 義家 Minamoto no Yoshiie[1039-1106]

八幡太郎の名で知られる.陸奥守となると清原氏の内紛に介入して後三年の役を引き起こした.藤原宗忠の『中右記』に「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と記されるほどに武名を轟かせた.

源 義親 Minamoto no Yoshichika[-1108]

源義家の嫡男であったが,対馬守在任中に殺人を犯した罪で隠岐国に配流となる.しかし,配流先の隠岐国から出雲国に渡り乱暴狼藉を働いたために,朝廷の命令を受けた平正盛によって追討された.

なお,平正盛は平清盛の祖父.

源義親は源氏の棟梁となる源為義の父.

●源 義忠 Minamoto no Yoshitada[1083-1109]

河内源氏棟梁の座を承継するも,叔父の源義光の命令を受けた大掾[鹿島三郎]成幹によって暗殺された.

●源 為義 Minamoto no Tameyoshi[1096-1156]

父の源義親が乱行により討伐された.このために,祖父・源義家は三男・義忠に河内源氏の棟梁の地位を承継させ,嫡男であった源義親の子の為義を次代の棟梁に定めたとされる.源為義も父親の血が影響していたためか,数々の乱暴狼藉を働いたことで知られ,そのために昇進が大幅に遅れたとされる.

また,長兄の源義信,源義忠の次男の源義高,祖父・源義家の三男の源義国も河内源氏の嫡流を称していたとされ,その意味でも源為義の地位は非常に不安定なものだったと考えられる.

保元元[1156]年に勃発した保元の乱において,源為義は崇徳上皇方に,息子の源義朝は平清盛とともに後白河天皇方に付いて互いに戦った.敗れた源為義は息子の義朝の助命嘆願にも関わらず,朝廷の命令によって義朝による斬首となった.

●源 義朝 Minamoto no Yoshitomo[1123-1160]

河内源氏が一族の内紛によって凋落している中で生まれ育つ.そうした中で,幼少期に関東に下向し,上総氏によって養育され,上総御曹司と呼ばれた.この時期に父の源為義の所領であった安房国丸御厨[千葉県南房総市丸本郷]を拠点として,安西氏・三浦氏・上総氏らの後援を受けるようになる.さらに,祖先である源頼義以来の所領である鎌倉を拠点として勢力を拡大していった.

保元元[1156]年に勃発した保元の乱において,源為義は崇徳上皇方に,息子の源義朝は平清盛とともに後白河天皇方に付いて互いに戦った.父・源為義は敗れ,助命嘆願を行うも許されず,父を斬首せざるを得なくなった.3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北.関東へと落ち延びる途上で裏切りによって殺害された.