久下 Kuge

出自

武蔵七党私市党.

発祥の地

私市家盛の弟の為家が武蔵国大里郡久下郷[埼玉県熊谷市]を本拠地として久下を名乗ったのが起源.

備考

承久の乱の後,久下直高が丹波国氷上郡栗作郷金屋[兵庫県丹波市山南町]の地頭として下向.但し,栗作郷は一ノ谷合戦の戦功によって源頼朝により伊豆国玉川荘・三河国篠田村とともに与えられたものという.承久の乱において京都へと攻め上った後に武蔵国へと帰らなかったということであろう.

久下時重は足利尊氏に与して玉巻城[山南町玉巻]を本拠とした.足利尊氏が新田義貞に敗れて丹波国に落ち延びた際[1336]と観応の擾乱の際に久下時重は尊氏を匿っている.この故を以って,久下時重と子の貞重・頼直・幸興らは丹波国内はもとより武蔵国・飛騨国内にも所領を得ることとなった.

荻野氏と並んで丹波国国衆として勢力を誇ったが,明応2[1496]年,室町幕府将軍足利義材に従って久下政光が河内国へと従軍中,室町幕府管領で丹波国守護も兼ねた細川政元が足利義澄を新将軍として擁立.このクーデターにより,室町幕府将軍足利義材は降伏し,畠山政長は自刃.幕府軍は崩壊し,久下政光は丹波国に逃げ帰る.ところが,丹波国は既に丹波国守護の細川政元が押さえており,久下政光の戻る場所は無かった.その所領も赤井氏・波多野氏に押さえられ,足利義材が復権するまで逼塞を余儀なくされた.

足利義材の復権によって,久下氏は息を吹き返したが,それも束の間,明智光秀率いる織田信長軍の丹波侵攻によって滅亡.

分布

兵庫県丹波市柚津・池谷・棚原・玉巻・谷川・三原に多い.その他,東京都青梅市友田町,埼玉県飯能市下畑に広がる.

系譜