清和源氏南部氏流.
陸奥国九戸郡九戸村大字長興寺大名館[岩手県]
南部家の祖である南部光行の子・行連が陸奥国九戸郡伊保内[九戸]を領して九戸を称したことが起源とされる.但し,甲斐国に本拠地を有していた南部光行自体が陸奥国に下向していない可能性が高いとされる.この点を重視し,かつ,失われた九戸神社伝「小笠原系図」によると,信濃守護の小笠原政康[1376-1442]の子孫の小笠原右近将監政実こそが九戸家の祖という.また,軍記物『九戸軍談記』には小笠原正安をもって九戸家の祖としている.
そもそも,南北朝時代に南朝方として関東から多賀城に至る地域で活躍した結城親朝[-1347]が九戸に所領を有し,その配下に小笠原家があったともいう.もとより定かではない.
室町時代末期の九戸光政の時代に,九戸から二戸へと進出し九戸城を築城.九戸城を新たな本拠地とした.九戸家の勢力拡大は,三戸家の危機感を惹起.天文23[1554]年から永禄元[1558]年に掛けて,九戸家と三戸家の対立は津軽の大浦家を巻き込んで先鋭化.この事態が,大浦家の津軽における独立への導線となっていく.
永禄6[1563]年には第13代室町幕府将軍足利義輝の家臣書上において,九戸家は三戸家と併記されるに至る.九戸信実・信仲[-1589]の代に,浄法寺家,新田家,七戸家,久慈家,野田家と姻戚関係を結び,更なる勢力拡大を図った.
このように,九戸家は三戸家と対立し,そのルーツも歴とした南部一族である三戸家とは様相を異にしていた.しかし,九戸家が自らも,そして,周囲からも南部一族であるとみなされていたことは,天正9[1581]年の三戸南部信直の家督承継時に九戸家当主の九戸氏当主・九戸政実の弟であり,南部晴政の二女を妻としていた九戸実親を当主として擁立する動きがあったことでも窺いしれる.
こうした中,豊臣秀吉による奥州仕置が行われる.この豊臣氏による「京儀」の支配を首肯しない奥州の国人衆は一揆を起こす.立ち上がったのは,九戸家,四戸家,七戸家,久慈家であり,九戸家が一揆の盟主的立場であったことから九戸一揆と呼ばれた.
九戸一揆に対して,豊臣政権は6万に及ぶ軍勢を奥州に派遣.九戸城を包囲し落城させ,籠城者を殲滅.ここに,奥州の名門として,三戸南部家と並び立った九戸家は途絶えることとなった.
九戸政実の弟・中野康実は高水寺城主・斯波詮真・詮直父子[斯波御所],そして,三戸南部信直に仕えていたため,兄の九戸政実とは命運を共にしなかった.後に,中野家は鹿角郡花輪城を与えられ,八戸氏・北氏と並んで家老を務める南部御三家となる.この一族は南部の名乗りを許されている.
【中野】【高田】【坂本】【上野】【小軽米】【江刺】【姉帯】