東北の雄・最上氏は清和源氏の足利泰氏の長子・家氏を祖とする.足利家氏は足利泰氏と名越朝時の娘との間に生まれた.名越朝時は鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男.足利家氏は当初は足利三郎家氏と足利家の嫡男の名乗りをしていた.しかし,父の泰氏が北条得宗家の北条時氏から正室を迎えることとなり廃嫡された.廃嫡はされたものの,北条時氏の三男であり,第4代執権・北条経時,第5代執権・北条時頼の同母弟でもある北条時定[阿蘇為時;-1290]の娘を正室としたことにより高い家格を誇った.家氏の子孫は斯波氏と呼ばれるが,これは家氏が陸奥国斯波郡を領したことに由来する.もっとも,家氏自身は足利氏を名乗り,尾張守に任官したことから足利尾張守と称された.家格は,執権赤橋長時・連署北条政村・大仏朝直・名越時章・普恩寺業時と並ぶものであった.
南北朝時代,奥州管領・斯波家兼の子・斯波兼頼が出羽国按察使として出羽国最上郡山形に入部し山形城を築城.斯波兼頼が室町幕府より屋形号を許され最上屋形と名乗ったのが最上氏の始まり.
寒河江氏ら南朝方との戦いに勝利し,最上直家・満直の代を通じて一族を支配地に派遣し分散統治を推し進めることで勢力を拡大させた.しかし,これは逆に最上宗家の求心力の低下を招くこととなる.
最上義定[1492-1520]は後継者争いで混乱に陥った宿敵の寒河江氏を攻略し傘下に組み込んだ.伊達稙宗が永正11[1514]年に山形に侵攻し長谷堂で干戈を交えるも,山野辺直広・吉川政周ら重鎮が戦死.勝利した伊達稙宗は長谷堂城に小梁川親朝を置き山形城を伺った.これに対し,最上義定は山形城を去り中野城に退かざるを得なくなる.緊張が高まる中,最上義定は伊達稙宗と和議を結び,伊達稙宗の娘を妻として迎えた.
この長谷堂の戦いの影響により最上宗家の求心力は急速に低下.天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生の最上八楯と称される一族の力が増していくこととなった.
最上義定が嗣子なく没する.伊達稙宗は上山城主・上山義房が伊達家に叛旗を翻したことを契機として,上山・山形・天童・高擶,次いで寒河江に攻め入った.そのまま,山形を支配下に収めようとした伊達稙宗であったが国人衆からの反対に遭い,最上一族の中野義清の子・義守を最上宗家の当主とし傀儡化を図った.