摂政・関白・内大臣 藤原道隆を祖とする一門.父・兼家と弟・道長の間という立ち位置から中関白と呼ばれたとも.
道隆は娘の定子[一条院皇后宮]を一条天皇の中宮とし,脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母としていた.しかし,嫡男の伊周を関白にすることに失敗.一条天皇生母である詮子[兼家娘,東三条院]の意思によって,道長への政権移譲への道筋が整えられると没落を余儀なくされた.
道長と伊周の弟・隆家は長徳元[995]年7月24日には氏長者の所領帳の所有をめぐって激しい口論を行い,同月27日には七条大路で従者同士の合戦にまで及んだ.さらに,8月2日には道長の従者の秦久忠が隆家の従者による殺害事件が発生.
このように,激しい権力闘争が繰り広げられる中,長徳2[996]年正月16日に長徳の変が起こる.
長徳の変は,太政大臣藤原為光の四女のもとに通う花山法皇を,自分が想いを寄せる為光三女に花山法皇が横恋慕していると勘違いした伊周がが隆家とともに花山法皇を襲撃したことに端を発する.恋愛沙汰が政治事件化し,一条天皇は検非違使別当・藤原実資[賢人右府,小野宮流]に伊周邸の他,伊周家司・紀伊前司菅原董宣邸,伊周郎等右兵衛尉源致光邸の捜索を命じる.藤原実資は左衛門権佐の源孝道を派遣し,私兵を集めていたとして,源元正・菅原宗忠・平常則・志田元貞らの菅原董宣の郎党が逮捕される.そして,伊周を大宰権帥に,隆家を出雲権守に左遷.
敦康親王は後ろ盾を失って皇位に就くことなく病死.中関白家は天皇家の外戚となる望みの絶たれた.その子孫は坊門家・水無瀬家として続いた.
藤原北家.摂政・関白・太政大臣・藤原兼家の長男.正二位,摂政,関白,内大臣.
永祚2[990]年5月に病気となった父・兼家が関白を辞すると,関白に任ぜられ,続いて摂政の地位を引き継いだ.しかし,長徳元[995]年に道隆も病に襲われる.道隆は一条天皇に頼み,子の伊周に関白の地位を譲ろうとするが,一条天皇は拒否.遂に,関白の地位を息子に引き継げないままに,道隆は世を去った.
この背景には,道長への政権移譲を実現しようとする一条天皇生母である詮子[兼家娘,東三条院]の意思があったとされる.
中関白家の祖.
藤原北家.摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男.正二位,内大臣.
父・道隆の死後,叔父の道兼が関白・氏長者に就く.しかし,道兼は病に冒されていたために,すぐに死去.その後,同じく叔父である道長と権力争いを繰り広げた.結果は,道長が一条天皇生母である詮子の後援を得て右大臣,そして,氏長者になったことで形勢は固まってしまう.
さらに,長徳の変を引き起こしたことで没落を決定づけることとなった.この事件の結果,大宰権帥に左遷.
東三条院[詮子]の病気平癒のために,長徳3[997]年に大赦によって伊周・隆家兄弟を赦免.
しかし,赦されて後も,寛弘4[1007]年には,伊周・隆家兄弟が伊勢国の平致頼とともに道長暗殺を企てているとの噂が立ち,源頼定[村上源氏]が勅使に立つなど平坦なものではなかった.
加えて,道長の娘の彰子が一条天皇との間に敦成親王[後一条天皇]を産むと,一条天皇の皇后であった伊周の妹の定子が産んだ敦康親王が皇位に就く可能性がなくなってしまう.その失意の中,寛弘7[1010]年正月28日に37歳で亡くなった.
藤原伊周の長男.従三位,左京大夫.花山法皇皇女殺害事件,三条天皇皇子の小一条院敦明親王の郎党・小野為明傷害事件など数々の事件を起こしたことから荒三位,悪三位と呼ばれた.