藤原北家閑院流.
閑院家の祖・太政大臣公季の玄孫である三条大納言・藤原公実[Kinzane;1053-1107]の四男・通季[Michisue;1090-1128]を祖とする.通季は父・公実から閑院流の正嫡に受け継がれる牛車を相続しており閑院流を継承する立場にあった.その早世により閑院流では三条実行[Saneyuki;1080-1162],徳大寺実能[Saneyoshi;1096-1157]の子孫が勢力を伸ばすこととなる.
通季の子で西園寺家第2代・公通[Kinmichi;1117-1173]は閑院按察使,藤大納言を称したものの権大納言に昇るに留まった.
その子で,西園寺家第3代・実宗[Sanemune;1145-1214]は坊城内大臣・大宮・五条を称し,西園寺家で初めて内大臣に任ぜられる.実宗の娘は藤原北家嫡流の藤原道長六男の藤原長家を祖とする御子左家の藤原定家[1162-1241]に嫁し後堀河院民部卿典侍,香,為家を産んでいる.なお,実宗の妻は,源頼朝の命を救ったという逸話で知られる池禅尼の子の平頼盛の娘を妻とした持明院基家の娘.ここで鎌倉幕府を樹立する源頼朝との接点が出てくる.
西園寺家第4代・公経[Kintsune;1171-1244]は鹿苑寺[金閣寺]の近くに西園寺を建立したことで西園寺が家名となった.つまり,公経が西園寺家の実質的な祖ということになる.源頼朝の姉妹である坊門姫と一条能保との間の子である全子を妻としている.公経自身も,源頼朝の厚遇した平頼盛の曾孫でもあることから,二重に鎌倉幕府と繋がっていたことになる.そうした関係から,外孫である藤原頼経を鎌倉幕府第4代将軍として鎌倉に下向させることに尽力.この関係性の濃さから,1221[承久3]年に後鳥羽上皇が承久の乱を引き起こすと上皇方によって幽閉された.承久の乱の後,内大臣そして太政大臣となり,婿の九条道家とともに朝廷の実権を掌握.
また,孫の姞子[Kisshi;1225-1292]を後嵯峨天皇の中宮に入れた.姞子が後深草天皇・亀山天皇を産むこととなる.この後深草天皇の子孫が持明院統,亀山天皇の子孫が大覚寺統となり,両統迭立という事態を生じる契機となった.ともあれ,姞子の先例によって,西園寺家が中宮を出していくようになった.鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父にして,四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・鎌倉幕府第5代将軍藤原頼嗣の曾祖父にも当たる.
西園寺家第5代・実氏[Saneuji;1194-1269]も父と同様に太政大臣に昇り,常盤井相國を称した.