南部氏初代・南部光行の四男・朝清が1199年に七戸を領知,七戸太郎三郎と名乗ったことが起源.後に,南部朝清は久慈を兼領し久慈三郎と称した.
南部朝清の長男・光奥が久慈家の祖となり,次男・光継が七戸郷を相続して七戸家の祖となった.
青森県西津軽郡深浦町岩崎玉坂,つがる市山田山崎,岩手県九戸郡九戸村山屋・山田朝菜,西津軽郡深浦町に多い.
現在の青森県上北郡七戸町から野辺地町までが七戸と呼ばれ,広大な地域を支配下に置いていた.室町時代には四戸家,八戸家と対等な同盟関係を保持.
しかし,戦国時代になり,三戸家が台頭するに及んで,三戸家への従属を余儀なくされた.
南部光継のあと,清行,行実,政朝[新田政持の実子],政安[朝慶],慶武と七戸家は続く.さらに,慶国,直国と続いて,七戸家国の代に,陸奥西部から大浦為信[1550-1608]による侵攻を受け,平内を奪われた.
七戸家国は南部信直[1546-1599]を宗家としていた.この南部信直は三戸南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子で,三戸南部氏第24代当主・南部晴政に男子がいなかったために,その娘婿となって擁立された人物.娘婿となった後の元亀元[1570]年,南部晴政に実子・南部晴継が生まれ,天正4[1576]年には信直は廃嫡され,晴継が世子となる.ところが,天正10[1582]年に南部晴政が亡くなった直後に,晴継は疱瘡によって急逝.急遽,次の三戸南部家の当主を誰にするか,南部一族と重臣による大評定が行われる.
九戸氏当主・九戸政実の弟であり,南部晴政の二女を妻としていた九戸実親を当主に推す人々もいたが,結局は北信愛,八戸政栄,南長義らに推された信直が当主となった.
この過程で,七戸家国は九戸政実に与し,三戸南部家からの独立を模索.
九戸政実の乱が奥郡仕置によって討伐されると七戸家は滅亡.
江戸時代に,三戸南部家の重臣の南長義の子である直勝が七戸家の名跡を承継.
八戸家流七戸家,七戸伊勢守慶道[武田七戸]家,七戸直勝系七戸家