富山県 𝒯ℴ𝓎𝒶𝓂𝒶

新川郡/婦負郡/射水郡/砺波郡

江戸時代,前田家が加賀・能登・越中の3ケ国,現在の富山県と石川県に当たる地域を支配したことから富山県と石川県の名字は似ている.富山には寛永16[1639]年に前田利次に10万石が分知されて富山藩が成立している.しかし,射水郡・砺波郡・新川郡東部は加賀藩のままとなったため,特にこの地域では石川県との類似性が強い.

とはいえ,富山県ならではの名字も,金山・金森・土肥[Doi]・能登・柳瀬・東海などが知られる.土肥は鎌倉時代初期に相模国を中心に栄えた相模土肥家の一族で鎌倉時代後期から戦国時代末期に越中国で栄えた越中土肥家の末裔.

隣の石川県は地域外からの移住が多かった地域として知られるが,現在の富山県,かつての越中国はそれほどではなかった.

そのため,孝元天皇の末裔である波利古臣を祖とする砺波郡の利波臣氏,波利古臣の兄・麻都臣を祖とする射水郡の射水臣氏の血脈を受け継ぐ一族が勢力を保つこととなった.

滋賀県石山寺蔵『越中国官倉納穀吏替帳』によると,天平勝宝3[75l]年から延喜10[910]年までの160年聞に利波臣一族から多くの郡司を輩出していることが知られる.また,延喜10[910]年以降は砺波郡の大領・少領は利波臣一族から射水臣氏と移ったと考えられる.とはいえ,両氏は,そもそも同族であるし,利波臣一族は一方的に衰退した訳ではなく,平安時代中期から鎮守府将軍藤秀郷の流れを汲む井口家などの一族と一体化して武士団を形成していくこととなる.

このような武士団の中核にあったのが石黒家であり,井口・野尻などの各家と寿永2[1183]年の「倶利伽羅合戦」で勇名を馳せることとなる石黒武士団を形成し,ともに利波臣氏の血を受け継ぐとされている.

また,立山を開山したとの伝承を持つ佐伯氏は古代豪族の佐伯氏が早い時期に越中入りして土着した一族として知られる.

越中国 ℰ𝒸𝒸𝒽𝓊

歴代越中国司

歴代越中守護

国人衆

神保

上野国多胡郡辛科郷神保邑[群馬県高崎市]を発祥の地とする惟宗氏.

鎌倉時代以来の畠山家の家臣であり,畠山家が越中守護となったことを契機に永享年間に越中入りした.

神保国宗の代に婦負郡守護代となっている.

放生津を本拠としていたが,支配領域の拡大により富山城へと居城を移した.

椎名

桓武平氏の流れを汲む房総平氏の千葉一族のうち,下総国千葉郡椎名郷[千葉県千葉市緑区]を発祥の地とする一族.

越中守護となった畠山家の家臣となり,後に,新川郡守護代に任じられた.

越中守護の畠山尚順が越後守護代の長尾能景に援軍を要請して加賀一向一揆軍を討伐しようと企てた際に神保慶宗が離反.長尾能景は討ち死にした.このために,長尾為景は越中守護の畠山尚順から新川郡守護代に任じられて,神保慶宗・椎名慶胤連合軍を打ち破った.

松倉城を居城としたが,越後守護代の長尾家が新川郡守護代となったことで,松倉城には越後軍が駐屯し,椎名家は又守護代の地位に甘んじざるを得なくなった.

斎藤

藤原利仁流斎藤氏の流れを汲み,観応の擾乱の際に桃井直常を討伐した戦功によって,斎藤左衛門大夫入道常喜が越中国楡原保を得たことを起源とする家.

城生城を本拠とした.

上杉謙信が越中守護代の神保家の居城である富山城を攻略すると上杉家配下となる.しかし,上杉謙信の死後は織田家に従った.

佐々成政と豊臣秀吉の抗争の中で,斎藤信利は神保氏張に城生城を奪われ義兄の姉小路頼綱を頼って飛騨に落ち延びた.


参考文献

  1. 米国雄介『古代国家と地方豪族』教育社,1979
  2. 米沢康『越中古代史の研究』越飛文化研究会,1965
  3. 磯貝正義『郡司及び妥女制度の研究』古川弘文館,1978