藤原 Fujiwara

概略 Summary

藤原氏の始祖は事実上は不比等.不比等は大化の改新で活躍した中臣鎌足の次男.但し,これは当時から囁かれていたことだが,『公避くる所の事有り』と尊卑分脈に記されているように,天智天皇の落胤説いうのがある.母親は車持君与志古娘ということになっているが,実際は鏡王女というもの.この鏡王女は最初は天智天皇の室で後に鎌足の正妻となった人.さらに,彼が聖武天皇と孝謙天皇[称徳天皇]の外戚となることによって藤原一族の朝廷における地位を向上させている.

藤原氏というのは,壬申の乱では影が薄い.さらに,11歳のとき,天智8[669]年に父親の鎌足が亡くなっている.藤原氏は天智に仕えていたため,壬申の乱では大変なことになってもおかしくないが,壬申の乱が勃発したときは幸か不幸かまだ幼かったため,乱には結局のところ関係していない.これも後の藤原一族の繁栄に大きな影響を及ぼしている.

もし,壬申の乱のときに鎌足が健在であるか不比等がそれなりの年齢に達していれば当然に天智系に付いて戦っただろうから藤原一族のその後は無かっただろう.

藤原氏が藤原の姓を名乗るようになったのは,鎌足が亡くなる直前だとも,その死後だとも言われている.

ということは,実質的には藤原を名乗ったというのは不比等の頃からになる.

この藤原姓は天智天皇が自ら授けたもの.このように天皇が自ら臣下に姓を授けたという例は天皇の血を引く人以外では初めてだと言われる.

藤原氏のもともとの姓は中臣,つまり天児屋根命の後裔氏族,あるいは卜部氏の一族.

藤原という姓は等しく鎌足の子供達に継承されたかというとそうではない.藤原の姓を鎌足から継承したのは次男の不比等のみ.不比等はこうした措置によって,中臣という古代祭祀一族から脱皮を図った.

不比等の長女の宮子は文武天皇の室になって首皇子,後の聖武天皇を産んでいる.この聖武天皇には三女の光明子が室に入って阿部内親王の母親になっている.ただ,不比等自身は首皇子が即位する前に養老4[720]年8月3日に亡くなっている.追号は太政大臣正一位.

その跡を武智麻呂,房前,宇合,麻呂の藤原四兄弟が引き継いだ.

それぞれが,南家,北家,式家,京家の祖になる.