藤原氏長者

飛鳥時代

藤原鎌足[669]

中臣鎌子ともいう.蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿と4代に亘って権勢を誇った蘇我氏から大王家[天皇家]に権力を取り戻すために蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変に始まる大化の改新を中大兄皇子[天智天皇]とともに推し進めた.山科での狩で落馬し,その怪我が原因で世を去る直前,天智天皇から大織冠を授けられ内大臣に任ぜられるとともに藤原の姓を賜った.

藤原意美麻呂[669-698]

中臣国子の子.藤原鎌足娘・斗売娘を妻とし藤原鎌足の子の不比等が成人するまでの間の中継ぎとして藤原氏長者に.後に,藤原の姓は不比等の子孫のみに継承されるとの詔勅によって中臣姓に戻った.

奈良時代

藤原不比等[698-720]

藤原鎌足の子.天智天皇の子・弘文天皇[大友皇子]と皇弟・天武天皇[大海人皇子]が争った壬申の乱の勃発時,成人していなかったため,どちらに与することもなかった.草壁皇子の息子・軽皇子[文武天皇]の擁立に貢献.大宝律令編纂にも尽力.娘の藤原宮子は文武天皇の元へと入内し,首皇子[聖武天皇]が生まれている.また,後妻である橘三千代との間に生まれた光明子を聖武天皇の元へと入内させている.光明子[光明皇后]は藤原不比等の子供達と協力して藤原氏の隆興に寄与していく.藤原不比等の死後,不比等の子供である武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟が藤原四子政権を確立していく.

藤原房前[720-737]

藤原北家の祖.元明天皇の治世から元正天皇の治世に掛けて穂積親王・大伴安麻呂・石上麻呂・巨勢麻呂が世を去る議政官となり,父の藤原不比等が既に議政官であったことから,各氏族から議政官は1名という慣習の例外となった.元明上皇の遺志により,長屋王とともに元正天皇の輔弼を行う.神亀元[724]年,長屋王の変によって長屋王が自殺したことで藤原四子政権が確立.天平9[737]年,天然痘に倒れ世を去った.

藤原武智麻呂[737]

藤原不比等の長男.藤原南家の祖.舎人・新田部両親王,大納言・多治比池守とともに長屋王を糾弾し長屋王を自害に追い込む.長屋王死後,弟の藤原房前に代わって藤原氏長者となる.天平3[731]年,大納言・大友旅人が世を去ると太政官のトップとなる.また,弟の藤原宇合を参議として議政官に加え,藤原四子政権を確立.天平9[737]年,天然痘によって世を去る.藤原四兄弟は天然痘で世を去り,長屋王の怨霊の噂が流れる.

藤原豊成[737-757]

藤原南家.左大臣・藤原武智麻呂の長男.聖武天皇の治世下の橘諸兄とともに執政を行う.孝謙天皇が即位すると,弟の藤原仲麻呂が急速に台頭.天平勝宝8[756]年,聖武上皇の皇嗣に関する発言の責任を取って左大臣・橘諸兄が致仕.翌年,橘諸兄は世を去る.橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼし孝謙天皇の廃そうとするが失敗[橘奈良麻呂の乱].右大臣・藤原豊成とその子・乙縄は事件への関与ありとして大宰員外帥として左遷.

藤原仲麻呂[757-764]

藤原南家.左大臣・藤原武智麻呂の子.藤原豊成の弟.淳仁天皇の治世では改姓し藤原恵美押勝.

聖武天皇の治世下では,兄の藤原豊成と橘諸兄が上席.しかし,皇嗣に関する失言によって橘諸兄が左大臣を辞すると,仲麻呂は急速に兄に肉薄する.聖武上皇の遺言により皇太子に立てられていた道祖王が素行を問題とされ廃太子され,仲麻呂が推していた大炊王[淳仁天皇]が皇太子となると,仲麻呂は大臣に准じる紫微内相に任ぜられる.さらに,橘諸兄の子の橘奈良麻呂による藤原仲麻呂暗殺計画が発覚すると,橘奈良麻呂らを捕縛するとともに,右大臣藤原豊成も関与したとして大宰府に左遷[橘奈良麻呂の乱].この橘奈良麻呂の乱の平定によって,藤原仲麻呂は太政官の首座に.そして,淳仁天皇が即位すると,藤原仲麻呂は右大臣となるとともに,恵美の姓を賜った.続いて,皇族以外で初めて太政大臣に任ぜられる.こうした仲麻呂の権力を支えたのが光明皇太后であった.そのため,光明皇太后が亡くなると権力に翳りが生じる.特に,孝謙上皇が道鏡と接近すると,淳仁天皇・藤原仲麻呂は孝謙上皇・道鏡は次第に対立.こうした事態に対して,藤原仲麻呂は先手を打って挙兵を計画.ところが,計画が事前に漏れて,藤原仲麻呂は平城京を脱出し越前国を目指す.しかし,官軍に攻められて捕らえられて斬首[藤原仲麻呂の乱].藤原仲麻呂の一族は刷雄と徳一以外は殺害された.

藤原豊成[764-766]

橘奈良麻呂の乱で責任を問われて,弟の藤原仲麻呂に大宰府へと左遷された豊成.しかし,無罪であると主張して大宰府へと下向せずに,難波で病気療養するとして逼塞.その間に,藤原仲麻呂が朝廷に叛旗を翻し討伐.これによって,藤原豊成は右大臣に復帰.

藤原永手[766-771]

藤原北家.藤原房前の次男.当初は藤原仲麻呂を支えていたが,藤原仲麻呂が自らの一族のみを重用していくようになると離反.藤原仲麻呂の乱に際しては初めから孝謙上皇派として活動し,藤原仲麻呂派の討伐に功があった.称徳天皇の治世下では道鏡とも一線を画し,藤原氏長者として,藤原南家の継縄と藤原式家の田麻呂を参議に抜擢し,藤原氏の勢力拡大を図っている.称徳天皇の時代には様々な政治的事件が勃発するが,藤原永手は巻き込まれることがなかった.そして,称徳天皇が崩御すると,天智系の白壁王[光仁天皇]の擁立に尽力.死去に際して太政大臣に任ぜられた.

藤原良継[771-777]

藤原式家.藤原宇合の次男.藤原四兄弟が相次いで世を去った後,藤原氏の勢力は後退し橘諸兄が政権を掌握した.こうした状況下,藤原宇合の長男・広嗣は大宰少弐に任ぜられ中央から遠ざけられる.これに反発した藤原広嗣は叛旗を翻す[藤原広嗣の乱].叛乱は失敗し,藤原広嗣は処刑され,弟の良継も伊豆国へと配流.やがて,中央に復帰するも,南家の藤原仲麻呂の絶頂期.藤原仲麻呂暗殺計画を立てるも捕縛.藤原の姓を剥奪される.藤原仲麻呂の乱が勃発すると,孝謙上皇派として活躍.称徳天皇の崩御後は藤原北家の藤原永手とともに白壁王[光仁天皇]の擁立に尽力.藤原永手の死後は内臣となり,右大臣・大中臣清麻呂に次ぐ地位を得た.

藤原魚名[778-782]

藤原北家.藤原房前の五男.称徳天皇の崩御後,藤原北家の藤原永手,藤原式家の良継・百川とともに白壁王[光仁天皇]の擁立に尽くす.桓武天皇が即位し,右大臣・大中臣清麻呂が引退すると,藤原魚名は左大臣に任ぜられて太政官の首位に.ところが,天応2[782]年,藤原魚名は左大臣を解任され大宰帥に左遷.桓武天皇が天皇の権力強化を図ったものとされる.大宰府へと向かう途中,摂津国豊島郡にて発病.延暦2[783]年に世を去った.

藤原田麻呂[782-783]

藤原式家.藤原宇合の五男.藤原広嗣,良継の弟.藤原広嗣の乱に連座し隠岐に配流.光仁天皇治世の末期から桓武天皇の治世に掛けて,右大臣・大中臣清麿,大納言・石上宅嗣が世を去ると大納言・近衛大将に任ぜられる.さらに,藤原北家の左大臣・藤原魚名が世を去ると右大臣として太政官の首位となった.その翌年に藤原田麻呂自身が世を去った.

藤原是公[783-789]

藤原南家.藤原乙麻呂の長男.皇太子・山部親王[桓武天皇]の春宮大夫を務め,桓武天皇が即位すると重用された.左大臣・藤原魚名,右大臣・大中臣清麻呂,大納言・石上宅嗣,右大臣・藤原田麻呂が相次いで世を去ると中納言に任ぜられ,藤原南家の藤原継縄に並ぶ.そして,遂には,藤原継縄を越えて延暦3[783]年には右大臣となった.

平安時代

藤原継縄[789-796]

藤原南家.藤原豊成の子.桓武天皇の治世下では,同じ藤原南家の従兄弟の藤原是公の次席として順調に昇進.藤原式家の藤原種継が長岡京遷都に絡んで暗殺され,桓武天皇の皇后で式家出身の藤原乙牟漏,同じく式家出身の夫人・旅子も世を去ると式家の影響力が急速に低下.延暦8[789]年に藤原是公が世を去ると,翌年に右大臣に任ぜられた.

藤原内麻呂[796-812]

藤原北家.藤原真楯の三男.桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三天皇に仕え,同じく藤原北家で伯父の藤原永手の家に代わって北家の嫡流となった.大同5[810]年,平城上皇と嵯峨天皇が対立した薬子の乱が勃発すると,坂上田村麻呂と連携して嵯峨天皇の実権掌握に大いに寄与.

藤原園人[812-818]

藤原北家.藤原楓麻呂の長男.楓麻呂は房前の七男.嵯峨天皇の東宮傅であった関係で嵯峨天皇の引き立てを受けた.弘仁3[812]年に右大臣・藤原内麻呂が世を去ると右大臣に任ぜられ太政官の首位となった.

藤原冬嗣[818-826]

藤原北家.藤原内麻呂の次男.閑院大臣.弘仁12[821]年,藤原一族の教育機関として勧学院[京都市中京区西ノ京職司町]を創設.

藤原緒嗣[826-843]

藤原式家.藤原百川の長男.山本大臣.父の藤原百川は光仁天皇・桓武天皇の即位に貢献したものの,緒嗣が幼少の折に病没.これに対して,桓武天皇は百川への報恩として緒嗣を引き上げる.桓武天皇に対して,蝦夷平定と平安京建設の中止を進言[徳政論争].桓武天皇も緒嗣の発言を重視し両事業を中止.大同3[808]年,坂上田村麻呂の後任として陸奥出羽按察使に任ぜられる.蝦夷平定の中止を進言した経緯を体現し在任中に兵力を動かすことは無かった.薬子の変で同じ式家の藤原仲成が敗れて死亡すると式家の影響力が低下.代わって,北家の藤原冬嗣が台頭し緒嗣を抜いていく.淳和天皇の即位と藤原冬嗣の死によって藤原緒嗣は再び政権の中心を担うようになる.ところが,仁明天皇の治世,藤原北家の藤原良房の妹・順子と仁明天皇との間の皇子・道康親王を皇太子とする動きが強まる.これに対して,淳和上皇の皇子で皇太子の恒貞親王の地位を危ぶんだ伴健岑・橘逸勢らが皇太子の東国遷座を画策.計画は漏れ首謀者らは捕縛.皇太子・恒貞親王も廃された[承和の変].この承和の変に式家の藤原吉野が連座.藤原緒嗣の政治的影響力は急速に低下.北家の藤原冬嗣の子である長良・良房兄弟が政権を掌握する中で世を去った.

藤原良房[843-872]

藤原北家.藤原冬嗣と藤原美都子の間の子.嵯峨天皇の皇女・源潔姫を妻とする.仁明天皇の治世において,嵯峨上皇の引き立てによって急速に出世.嵯峨上皇の死後に勃発した承和の変において,恒貞親王が廃太子され道康親王が皇太子となったことで皇太子の外伯父となる.また,藤原愛発・藤原吉野の失脚によって,左大臣・藤原緒嗣,大納言・橘氏公,右大臣・源常に次ぐ地位を確保.さらに,藤原緒嗣と橘氏公の死の翌年には右大臣となる.嘉祥3[850]年,道康親王が文徳天皇として即位すると,娘の明子を入内させ,惟仁親王が生まれる.この惟仁親王[清和天皇]を皇太子とした.斉衡4[857]年,道鏡以来の太政大臣となる.嗣子なく,兄・長良の子・基経を養子とした.清和天皇の治世下で,応天門の変が勃発すると清和天皇から人臣初の摂政に任ぜられる.応天門の変によって大納言・伴善男が失脚し,大伴氏・紀氏が衰退したことで藤原氏の地位を盤石とする.

藤原基経[872-891]

藤原北家.藤原長良と藤原乙春との子.叔父・藤原良房の養子.貞観8[866]年,応天門が炎上し大納言・伴善男が左大臣・源信を犯人として告発し,右大臣・藤原良相により源信の逮捕を命じられるも,養父・藤原良房と連携し源信の無罪を明らかにした.結果,伴善男が真犯人とされ流罪.大伴氏・紀氏一族が連座し衰退.養父・藤原良房の死の前年の貞観14[872]年に右大臣となる.妹・高子と清和天皇との間に生まれた貞明親王が陽成天皇として即位すると藤原基経は摂政に任ぜられる.元慶4[880]年には太政大臣となる.しかし,陽成天皇が元服した元慶6[882]年以降,藤原基経と陽成天皇の関係が悪化.ここには藤原良房と妹で皇太后の高子との関係が良く無かったことが背景にあるとも言われる.元慶7[883]年,陽成天皇が乳人・紀全子の子・源益を殺害するに及んで藤原基経は天皇の廃位を決断.仁明天皇の第三皇子・時康親王を光孝天皇として擁立.光孝天皇は即位時に高齢であったため,間も無く崩御.皇子の源定省が宇多天皇として即位.宇多天皇は藤原基経を関白とする.ところが,この任命の過程で,左大弁・橘広相が「阿衡」の文字を用いたことから藤原基経は抗議のため職務放棄[阿衡事件].その後,宇多天皇が橘広相を罷免し謝りを認めたことで事件は決着.

藤原良世[891-897]

藤原北家.藤原冬嗣と大庭王の娘との子.寛平7[895]年の左大臣・源融の死の翌年に左大臣となるも辞職し致仕大臣と呼ばれた.

藤原時平[897-909]

藤原北家.摂政関白太政大臣・藤原基経と人康親王との子.醍醐天皇の治世下で菅原道真と対立.宇多法皇の意を受けた菅原道真と醍醐天皇の信頼を背景とする藤原時平というのが対立の構図であった.延喜元[901]年,左大臣・藤原時平と大納言・源光は醍醐天皇に進言して菅原道真を大宰員外帥に左遷[昌泰の変].これによって,藤原時平は政権を掌握.

藤原忠平[909-949]

藤原北家.摂政関白太政大臣・藤原基経と人康親王との子.藤原時平の弟.醍醐天皇の治世下,兄の藤原時平が早世すると藤氏長者として藤原北家の嫡流となる.延長8[930]年,醍醐天皇が朱雀天皇に譲位すると摂政に任ぜられる.承平6[936]年には太政大臣,天慶2[939]年には准三后となる.家人であった平将門による承平天慶の乱を挟んで,天慶9[946]年に村上天皇の即位後は関白として朝廷を主導.兄の藤原時平とは異なり,菅原道真と親しく,宇多天皇の皇女である室の源順子は「菅原の君」と言われ菅原道真の娘・菅原衍子の子ともされる.また,兄が早世したのに対し,忠平は宇多天皇,醍醐天皇,朱雀天皇,村上天皇の4代に仕え,藤原北家嫡流として子孫に摂関職を伝えた.

藤原実頼[949-970]

藤原北家.摂政関白太政大臣・藤原忠平と宇多天皇の皇女・源順子との子.父の藤原忠平が世を去ると弟の師輔とともに左右大臣として朝政を執り仕切った[天暦の治].実頼は娘の述子,弟の師輔は娘の安子を村上天皇の女御とした.しかし,術子は皇子を産むことなく世を去った.一方で,安子は皇太子の憲平親王や為平親王,守平親王を生んだ.康保4[967]年,村上天皇の崩御により憲平親王が冷泉天皇として即位すると,天皇の病のため実頼は関白太政大臣に任ぜられた.病の冷泉天皇の皇嗣に関連して左大臣・源高明が謀反の嫌疑によって大宰府に流される[安和の変]と,冷泉天皇は守平親王[円融天皇]に譲位.藤原実頼は引き続き摂政に任ぜられるも翌年世を去った.

藤原実頼は冷泉天皇と姻戚関係をとり結んだ藤原師輔の子供達[伊尹・兼通・兼家]ら九条流に実権を握られ揚名関白,つまり,名ばかり関白と揶揄された.

藤原伊尹[970-972]

藤原北家.右大臣・藤原師輔と藤原南家・武蔵守藤原経邦の娘・藤原盛子との間の子.別称,一条摂政.妹の藤原安子が村上天皇の中宮となり,憲平親王[冷泉天皇]・守平親王[円融天皇]を生んだことが藤原伊尹に大きく影響している.父の藤原師輔が世を去り,その後,村上天皇が崩御し憲平親王が冷泉天皇として即位すると,師輔の弟の実頼が藤原北家の嫡流として関白太政大臣に任ぜられる.しかし,藤原実頼には天皇家との外戚関係は無かった.その一方で,藤原伊尹は娘の懐子を女御として冷泉天皇に入内させ師貞親王[花山天皇]をもうけている.病を抱える冷泉天皇の後継問題が浮上する中,源満仲が左大臣・源高明[西宮左大臣,醍醐源氏]による謀反の計画を告発.源高明は大宰権帥へと左遷[安和の変].天禄元[970]年,藤原伊尹は右大臣となり,摂政太政大臣・藤原実頼が世を去ると藤氏長者および摂政に.翌年には太政大臣に任ぜられる.ところが,それから間も無く病に倒れ世を去った.

藤原頼忠[972-974]

藤原北家小野宮流.太政大臣・藤原実頼の子.円融天皇の外伯父である藤原伊尹が亡くなると一時期は関白候補となる.結局,藤原伊尹の弟・兼通が内覧宣下を受け関白に任ぜられた.但し,藤氏長者は頼忠となった.この状態も長くは続かず,天延2[974]年に藤原兼通が太政大臣に任ぜられると藤氏長者の地位も兼通に譲られた.

藤原兼通[974-977]

藤原北家九条流.藤原師輔の次男.藤原伊尹の弟.太政大臣に任ぜられたことを契機として藤原頼忠から藤氏長者を譲られる.藤原兼通と頼忠は親密であったとされる.弟の兼家の娘・超子と冷泉天皇との間に居貞親王[三条天皇]が生まれると,病を得ていた兼通は兼家の外戚化を嫌い,頼忠に関白職を譲った上で世を去った.

藤原頼忠[977-986]

藤原兼通の死後,兼通に疎まれていた弟の兼家を円融天皇の外伯父ということで右大臣に登用.こうした配慮をした頼忠であったが,円融天皇は左大臣・源雅信をも重用.権力は円融天皇と藤原頼忠・兼家,源雅信に分散された.永観2[984]年,円融天皇は花山天皇に譲位.藤原頼忠は関白の地位に留まったものの,ここでも外戚となることに失敗.代わって,花山天皇の信頼を勝ち取ったのは,藤原伊尹の子で花山天皇の叔父でもある藤原義懐.ここに至って,藤原頼忠と義懐の対立が深まり朝政が機能不全へと陥っていく.寛和2[986]年,藤原兼家は策略によって花山天皇を退位に追い込む[寛和の変].そして,藤原兼家が外祖父である懐仁親王が一条天皇として即位.一条天皇の即位によって,藤原頼忠が関白を辞任.藤原兼家が摂政となり朝政を完全掌握.関白を辞した藤原頼忠であったが,太政大臣の地位は亡くなる永延3[989]年まで保った.

藤原兼家[986-990]

藤原北家九条流.右大臣・藤原師輔と藤原盛子との子.兄・兼通に疎まれたが兄の死後,円融天皇の母・藤原安子の弟であるということで右大臣に.円融天皇が花山天皇に譲位した後,花山天皇を欺いて出家させ,娘の藤原超子[東三条院]と円融天皇との間の懐仁親王が一条天皇として即位すると天皇の外戚ということで摂政および藤氏長者となる.右大臣・藤原兼家の上には藤氏長者の地位を譲った形となった太政大臣・藤原頼忠,左大臣・源雅信がいた.そのため,藤原兼家は右大臣を辞職し摂政および准三宮として朝政を掌握.永祚元[989]年,子の藤原道隆を内大臣に据えた.さらに,太政大臣・藤原頼忠が世を去ると,代わって太政大臣となった.一条天皇の元服時に摂政から関白となり,すぐに関白職を道隆に譲り病没.以降,兼家の家系が摂関を独占していくこととなる.

藤原道隆[990-995]

藤原北家九条流.摂政関白太政大臣・藤原兼家と摂津守藤原中正[北家魚名流]の娘・時姫との間に生まれる.一条天皇の外祖父となった父・兼家が摂政に任ぜられると道隆も権大納言へと昇進.関白となった藤原道隆は,長徳元[995]年,子で内大臣の地位にあった伊周を内覧として後継者としようとする.ところが,伊周に関白の地位を譲ることは許されず,内覧も道隆が病の間という限定的なものとなる.そして,自らの家系を摂関家の嫡流としようとした野望が叶わないことを悟ったのように世を去った.

藤原道隆の家系は,摂関家の嫡流としての地位を確立した父の藤原兼家と,その地位を受け継ぐ形となった弟の道長の御堂流とに中間に位置していることから中関白家と呼ばれる.

藤原道兼[995]

藤原北家九条流.摂政関白太政大臣・藤原兼家と摂津守藤原中正[北家魚名流]の娘・時姫との間に生まれる.藤原道隆の弟.兄の藤原道隆が亡くなった後,道隆の子の伊周は関白となることが出来ず,道隆の弟の道兼が関白の職位を受け継いだ.しかし,すぐに病に倒れ世を去ったために,七日関白と呼ばれた.

藤原道長[995-1017]

藤原北家九条流.摂政関白太政大臣・藤原兼家と摂津守藤原中正[北家魚名流]の娘・時姫との間に生まれる.藤原道隆・道兼の弟.藤原北家御堂流の祖.藤原道長は左大臣・源雅信[宇多源氏]の娘・倫子,同じく左大臣で安和の変で失脚した源高明[醍醐源氏]の娘・明子を妻とした.藤原道長は,兄である藤原道隆・道兼が相次いで亡くなると,道隆の子の伊周と権力の座を争うこととなる.ここでキーマンとなったのが一条天皇の母である東三条院詮子.東三条院詮子は弟の道長を愛し一条天皇に道長の重用を迫った.これにより,藤原道長は右大臣に任ぜられ藤氏長者の地位を得る.これで収まらなかったのが藤原伊周.伊周は自ら摂関家の嫡流と自負していたので少しも道長に譲るところは無かった.そうした中,長徳2[996]年,藤原伊周・隆家兄弟は恋愛関係のもつれから花山法皇に射かけるという事件を引き起こす.この事件によって,藤原伊周は大宰権帥,隆家は出雲権守に左遷[長徳の変].こうして中関白家は失脚.以降,左大臣・藤原道長,右大臣・藤原顕光[兼通の子],内大臣・藤原公季[師輔の子]の体制が21年継続.

藤原道長は娘・彰子を一条天皇の中宮とし,その間に生まれた敦成親王[後一条天皇],敦良親王[後朱雀天皇]を皇位に就けることに邁進する.まず,病を得た一条天皇を退位させ冷泉天皇の皇子・居貞親王を三条天皇として即位させた.そして,三条天皇の皇太子として敦成親王を擁立.さらに,長和3[1014]年,眼病を患った三条天皇を敦明親王の立太子を条件に退位に追い込んだ.こうして,敦成親王が後一条天皇として即位.藤原道長は摂政となる.寛仁元[1017]年,藤原道長は子の頼通に摂政を譲り摂関の世襲を確立.その一方で,三条院が崩御したことで皇太子・敦明親王の地位は危うくなり,それを十分に自ら悟った敦明親王[小一条院]は退位.藤原道長は敦良親王を立太子させた.こうして栄華を極めた藤原道長は万寿4[1028]年に世を去り,宇治の浄妙寺の東に葬られた.

藤原頼通[1017-1064]

藤原北家御堂流.摂政太政大臣・藤原道長と左大臣・源雅信の娘の源倫子[鷹司殿]との間に生まれる.藤原頼通は,蘇我馬子に次ぐ51年間という長期にわたって政権を担った.寛仁元[1017]年,姉の彰子を母とする後一条天皇の在位2年の時点で,父の藤原道長から摂政の地位を譲り受ける.しかし,天皇家の長である彰子と摂関家の長である道長が健在な状態でのスタートであった.藤原道長が世を去った後は上東門院彰子が政権を主導.この体制は後一条天皇が崩御し同母弟の後朱雀天皇が即位しても継続.後朱雀天皇が崩御すると,寛徳2[1045]年に親仁親王が後冷泉天皇として即位しても,頼通は関白の座を占めた.上東門院彰子と藤原頼通の二頭体制は維持されたが,藤原氏と外戚関係にある皇子は誕生せず,藤原氏とは外戚関係にない尊仁親王[後三条天皇]が皇太子となる.永承6[1051]年,藤原頼通に仕えていた源頼義が安倍氏に敗れた藤原登任に代わって陸奥守として奥州赴任.前九年の役が勃発.治暦3[1067]年,藤原頼通は子の師実に譲ることを条件として関白職を弟の教通に譲った.その後は平等院のある宇治に引退.

藤原教通[1064-1075]

藤原北家御堂流.摂政関白太政大臣・藤原頼通の弟.兄・頼通から,康平7[1064]年に藤氏長者を譲られる.藤原頼通は子である師実に関白を譲ろうとしたが,姉の上東門院彰子に阻まれて実現せず,治暦3[1067]年から関白職は空席となった.翌年,後冷泉天皇が重篤に陥る中,藤原頼通は弟の教通に関白職を譲った.後冷泉天皇が崩御し後三条天皇が即位する.宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇の誕生である.後三条天皇は皇太子時代の側近・藤原能信の養子・能長,村上源氏の源師房・経長,藤原実政[藤原北家日野流],大江匡房を登用し,関白・藤原教通を牽制.後三条天皇は延久4[1073]年に貞仁親王[白河天皇]に譲位し院政を布くも翌年崩御.承保元[1074]年には教通と対立していた兄の頼通が世を去り,続いて,上東門院彰子が世を去った.そして,藤原教通自身も承保2[1075]年に世を去った.藤原教通の死後,教通の子・信長と頼通の子の師実の政争を繰り広げていく.

藤原師実[1075-1094]

藤原北家御堂流.関白・藤原頼通と藤原祇子の間に生まれる.藤原頼通の死から教通の死に至るまで,教通の子・信長との間で政争を繰り広げた.藤原信長は内大臣,藤原師実は左大臣であったこと,白河天皇が藤原師実の養女・中宮賢子を寵愛していたことから,藤原教通の死後,藤原師実は内覧の地位を得る.さらに,藤氏長者の地位も得て関白となる.ここに至って,藤原信長は太政官への出仕拒否という行動に出る.それにも関わらず,承暦4[1080]年,藤原信長は太政大臣に任ぜられる.但し,藤原師通は一座宣旨を受け朝政の首座となり,信長は実権の無い閑職に追いやられた形であった.白河天皇は後三条上皇に従い藤原道長に対抗した三条天皇の血を引く実仁親王を皇太子としていた.この実仁親王が応徳2[1085]年に薨御すると,後三条上皇の遺命に従わず自らの子である善仁親王[Taruhito]を堀河天皇として即位させ院政を開始.白河上皇の力が摂関家の力を上回っていく中,寛治8[1094]年に子の師通に関白職を譲った.この間,源義家によって後三年の役[1083-1087]が戦われている.

藤原師通[1094-1098]

藤原北家御堂流.関白・藤原師実と源師房の娘・源麗子[京極北政所]との間に生まれる.藤原師通は摂関家の内部対立を解消するため,妻の藤原俊家[藤原北家中御門流]の娘・全子を離縁し藤原信長の養女・信子と再婚.父・師実から関白職を受け継ぐと白河上皇から自立しようとする堀河天皇の政務を補佐.承徳3[1099]年に病により急逝.

藤原忠実[1099-1121]

藤原北家御堂流.関白・藤原師通と藤原俊家[藤原北家中御門流]の娘・全子との間に生まれる.父・師通の急逝により,権大納言であった藤原忠実は内覧に任ぜられた.年齢が22歳であったこと,大臣に任官していなかったことから関白とはなれなかった.祖父である師実も高齢であり,しかも,康和3[1101]年に世を去る.加えて,藤原忠実の失策が相次いだため,白河法皇が政治を主導していく体制が確立していく.藤原忠実は長治2[1105]年にようやく関白に任ぜられる.嘉承2[1107]年,堀河天皇が崩御し宗仁親王が鳥羽天皇として即位.藤原忠実にとっては政治的危機であったが,白河法皇は外戚である藤原公実ではなく藤原忠実を摂政とする.これは摂政の形骸化とされており,摂関の地位が上皇の権威に基づくことを示すものであった.白河法皇は藤原忠実の子・忠通に,藤原公実の娘で自らが養女としていた璋子[待賢門院]を嫁がせようとする.これを藤原忠実が拒否したことから,保安元[1120]年に白河法皇は忠実の内覧を停止し宇治に蟄居させた.なお,璋子[待賢門院]は鳥羽天皇の後宮に入っている.

藤原忠通 [1121-1150]

藤原北家御堂流.摂政関白太政大臣・藤原忠実と源顕房[六条右大臣]の娘・源師子との間に生まれる.父・藤原忠実の失脚直後に,内覧および関白に任ぜられる.保安4[1123]年,鳥羽天皇は璋子[待賢門院]の生んだ顕仁親王[崇徳天皇]に譲位.藤原忠通は崇徳天皇の摂政となる.また,忠通は子の聖子を崇徳天皇の中宮として入内させた.藤原頼通の娘・寛子以来約80年ぶりも摂関家からの立后.大治4[1129]年,院政を行っていた白河法皇が崩御.これによって,失脚していた父・忠実が復権.長承元[1132]年には忠実は内覧となる.忠実は忠通に子がいないことを心配し,頼長を養子とさせた.しかし,康治2[1142]年に忠通に基実が生まれる.忠通は弟・頼長との養子縁組を解消.この間,永治元[1141]年には鳥羽上皇は崇徳天皇に迫って近衛天皇に譲位させた.忠通と忠実・頼長父子の確執は深まり,遂に,久安6[1150]年に忠実によって藤氏長者の地位が頼長に引き渡される.藤原忠通は父・藤原忠実から義絶された.

藤原頼長[1150-1156]

藤原北家御堂流.摂政関白太政大臣・藤原忠実と藤原盛実[藤原北家勧修寺流]の娘との間に生まれる.兄の忠通の養子になっていたが,兄に実子が生まれると養子縁組は解消された.父の忠通が兄の忠通を義絶し藤氏長者の地位を頼長に与えた.しかし,鳥羽上皇は忠通の関白職をそのままにする一方で,頼長に内覧の地位を与えたために,執政が並び立つという異例の事態となる.頼長は律令の論理を重視し慣例を軽んじたために悪左府と呼ばれるようになり孤立を深める.久寿2[1155]年,近衛天皇が崩御すると,鳥羽上皇と関白・藤原忠通によって雅仁親王が後白河天皇として擁立された.これにより,崇徳上皇・重仁親王父子は皇統からの除外が決定的となる.また,藤原頼長の内覧も停止された.

藤原忠通[1156-1158]

保元元[1156]年,鳥羽上皇が崩御.鳥羽上皇近臣の信西[藤原通憲;藤原南家]によって崇徳上皇と藤原頼長に謀反の計画があると告発される.関白・藤原忠通は崇徳上皇と藤原頼長が籠城する白河北殿への攻撃命令を発した[保元の乱].崇徳上皇と藤原頼長は敗れ,藤原頼長は深手を負って父・忠実に助けを求めるも拒絶され敗死.崇徳上皇は配流された.後白河天皇は藤原忠通に藤氏長者の地位を与えた.しかし,保元の乱後は,信西[藤原南家],藤原信頼[中関白家],藤原惟方[勧修寺流]といった鳥羽上皇近臣が政権を担った.保元3[1158]年,藤原忠通は藤原信頼と対立し,後白河天皇より閉門に処せられる.藤原忠実は関白職を子の基実に譲った.

近衛基実[1158-1166]

藤原北家御堂流.近衞家.関白・藤原忠通と源国信[村上源氏]の娘・源信子との間に生まれる.保元3[1158]年に二条天皇の治世下で関白および藤氏長者となる.平治元[1159]年,信西と対立した藤原信頼は藤原成親[魚名流]・源義朝と組んでクーデターを実行[平治の乱].信西は自害しクーデターは成功するかに見えたが,平清盛によって平定された.忠通・基実父子も平清盛に与している.藤原信頼は六条河原で斬首された.長寛2[1164]年,父の藤原忠実の死後,基実は平清盛の娘・盛子を妻に迎えた.藤原基実は,翌年には,六条天皇の摂政となるが急病死.このため,摂関領は基実の子・基通が承継するまでの間,平盛子が受け継ぐこととなる.

松殿基房[1166-1179]

藤原北家御堂流.松殿家の祖.関白・藤原忠通と源国信[村上源氏]の娘・源信子との間に生まれる[『今鏡』].兄・近衛基実が早世し,その遺児である基通が幼少であったため,中継ぎとして摂政に任ぜられる.後白河上皇との連携を深めた松殿基房は平盛子が管理する摂関領を摂関家に取り戻すべく画策.仁安3[1168]年,松殿基房は後白河上皇によって高倉天皇の摂政にも任じられ,承安2[1172]年には関白となる.ところが,治承3[1179]年に平盛子が亡くなり,後白河上皇と関白・松殿基房が遺領を後白河上皇の管領とし,かつ,基房の子・師家が基通の位階を越えるに及んで,平清盛は後白河上皇の院政を停止.松殿基房も大宰権帥へと左遷された[治承三年の政変].

近衛基通 [1179-1183]

近衛家.摂政関白・近衛基実と藤原忠隆[中関白家]の娘との間に生まれる.平清盛の娘・盛子が養母として養育.治承三年の政変によって平清盛が後白河上皇の院政を停止し,関白・松殿基房を左遷.これに代わって,内大臣,内覧,関白へと任ぜられた.治承4[1180]年には平清盛の外孫である安徳天皇の摂政となった.治承4[1180]年,後白河上皇の皇子・以仁王と源頼政[摂津源氏]が挙兵.以仁王と源頼政は討ち死にしたものの兵乱は拡大[治承・寿永の乱].養和元[1181]年,平清盛が世を去る.信濃国で挙兵した源義仲が上洛すると,平家一門は後白河上皇を京都に残したままで都落ちする.失脚していた松殿基房は源義仲と結び,子の師家を内大臣・摂政に据えた.

松殿師家[1183-1184]

松殿家.関白・松殿基房と藤原忠雅[花山院家]の娘・忠子との間に生まれる.治承・寿永の乱で平家を駆逐して上洛した源義仲と組んだ父・基房の尽力によって内大臣・摂政となる.しかし,元暦元[1184]年に源義仲が源頼朝の弟・義経に討たれると失脚.

近衛基通[1184-1186]

元暦元[1184]年に源義仲が源頼朝の弟・義経に討たれ松殿師家が失脚したことによって復権.しかし,平家を壇ノ浦で滅ぼした源頼朝が平家および後白河上皇と親しい基通を嫌ったことから,九条兼実が内覧および摂政となる.

鎌倉時代

九条兼実[1186-1196]

藤原北家御堂流.九条家の祖.摂政関白太政大臣・藤原忠通と藤原仲光の娘・加賀局との間に生まれる.後法性寺関白.

平家と結んだ近衛家や源義仲[木曽義仲]と結んだ松殿家を嫌った源頼朝によって内覧に推薦され任ぜられる.文治2[1186]年には後白河上皇によって摂政および氏長者に任ぜられた.建久元[1190]年,源頼朝が上洛した後,源頼朝の権威を後ろ盾とする九条兼実に対抗する勢力が宣陽門院周辺へと結集していく.建久3[1192]年,後白河上皇が崩御.これにより,親政を目指す後鳥羽天皇と九条兼実は対立していくこととなる.建久5[1195]年,後鳥羽天皇と源通親の養女・源在子に為仁親王[土御門天皇]が生まれると,その翌年に,源[土御門]通親が宮廷クーデターによって九条兼実を関白の座から降ろした.

近衛基通[1196-1202]

藤原北家御堂流.近衛家.摂政関白・近衛基実と藤原忠隆[中関白家]の娘との間に生まれる.平盛子が育てた.源頼朝が平家を滅ぼしたことにより失脚したが,建久7[1196]年の源[土御門]通親らによる宮廷クーデター[建久七年の政変]によって関白に擁立される.建久9[1198]年に土御門天皇が践祚すると摂政となる.土御門通親の死去によって後鳥羽上皇が九条良経を復権させたことで摂政を辞任.

九条良経[1202-1206]

建久七年の政変を主導した土御門通親が建仁2[1202]年に世を去ると復権.土御門天皇の摂政となるも,元久3[1206]年に急死.

近衛家実[1206-1221]

藤原北家御堂流.近衛家.摂政関白・近衛基通と坊城顕信[村上源氏顕房流]の娘・坊城顕子との間に生まれる.六条猪隈小路に猪隈殿を構えたことから猪隈関白と呼ばれた.

建永元[1206]年,九条良経の急死に伴って摂政および藤氏長者,そして,摂政に任ぜられる.承久3[1221]年,後鳥羽上皇による挙兵[承久の乱]に反対したために関白を解任された.

九条道家[1221]

摂政太政大臣・九条良経と一条能保の娘との間に生まれる.光明峯寺関白.鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経の父.

後鳥羽上皇や順徳上皇による承久の乱には加わらなかったが,仲恭天皇の外叔父として摂政となっていたがために,承久の乱が鎌倉幕府軍の勝利に終わると摂政を罷免.

近衛家実[1221-1228]

承久の乱が鎌倉幕府の勝利に終わり,仲恭天皇が廃位され九条道家が摂政を罷免されたことで,近衛家実は摂政および太政大臣に任ぜられ後堀河天皇を補佐する.安貞2[1228]年,西園寺公経と近衛道家によって関白を罷免.

九条道家[1228-1231]

鎌倉幕府と関係の深い西園寺公経の娘・西園寺倫子を正室としていたことや,九条道家の母[一条能保娘]が頼朝の姪であることから鎌倉幕府執権の北条義時の要請によって息子の藤原頼経を第4代鎌倉幕府将軍として下向させていたことから,近衛家実の後釜として関白となる.寛喜3[1231]年に息子の教実に関白を譲る.

九条教実[1231-1235]

摂政関白太政大臣・九条道家と西園寺公経の娘・西園寺倫子との間に生まれる.九条家第4代当主.通称,洞院摂政.第4代鎌倉幕府将軍・藤原頼経の兄.

父の九条道家から関白を譲り受けると同時に藤氏長者の地位も引き継いだ.しかし,実権は父が掌握していた.安貞2[1232]年,後堀河天皇が四条天皇に譲位すると摂政となる.文暦2[1235]年に薨去.

九条道家[1235-1237]

子の九条教実が文暦2[1235]年に薨去したため,再び,氏長者となる.嘉禎3[1237]年に,娘の仁子を嫁がせた近衛兼経に氏長者の地位を譲る.

近衛兼経[1237-1242]

関白太政大臣・近衛家実と藤原季定の娘との間に生まれる.但し,記録上の母親は源雅頼[村上源氏]の娘.近衛家4代当主.晩年を宇治岡屋荘で過ごしたため,岡屋関白と呼ばれた.

嘉禎3[1237]年に九条道家の娘・仁子を正室に迎え,近衛家と九条家との対立に終止符を打つ.これにより,九条道家から四条天皇の摂政および氏長者の地位を譲り受けた.仁治3[1242]年,四条天皇の崩御を契機として,西園寺公経によって二条良実[九条道家の子]に関白および氏長者の地位を譲った.

二条良実[1242-1246]

摂政関白左大臣・九条道家と太政大臣・西園寺公経の娘・西園寺棆子との間に生まれる.福光園関白と呼ばれる.

祖父の関東申次・西園寺公経の後援によって,仁治3[1242]年に関白となる.しかし,西園寺公経が寛元2[1244]年に世を去ると,父の九条道家が権力を再び掌握.寛元4[1246]年には,父の命令によって関白の職を弟の一条実経に譲らざるを得なくなった.

一条実経 [1246-1247]

摂政関白左大臣・九条道家と太政大臣・西園寺公経の娘・西園寺棆子との間に生まれる.円明寺関白と呼ばれる.

父の九条道家の寵愛を受け,一条室町第を受け継ぐ.寛元4[1246]年には兄の二条良実に代わって関白・藤氏長者となる.ところが,兄の鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経を巡る宮騒動[1246]に連座し摂政・内覧・藤氏長者を辞する[1247].

近衛兼経[1247-1252]

宝治元[1247]年に後深草天皇の摂政に再任.建長4[1252]年に異母弟の鷹司兼平に摂政・氏長者を譲り引退.

鷹司兼平[1252-1261]

関白太政大臣・近衛家実と藤原忠行の娘との間に生まれる.鷹司家の祖.照念院関白と呼ばれた.

建長4[1252]年に後深草天皇の摂政となるとともに藤氏長者の宣下を受け太政大臣となる.建長6[1254]年に辞任.

二条良実[1261-1265]

摂政関白左大臣九条道家と西園寺公経の娘・西園寺棆子との間に生まれた.福光園関白と呼ばれる.二条家の祖.

兄で鎌倉幕府第4代将軍であった藤原頼経と名越光時による執権・北条時頼への謀反[宮騒動;1246]に連座して父の九条道家が失脚.兄の頼経は鎌倉から京都へと送還.一方,二条良実は父とは疎遠であったために連座を免れていた.こうした経緯から父の九条道家は二条良実が北条時頼に与していると考えて義絶.しかし,建長4[1252]年に九条道家が世を去ると復権.弘長元[1261]年に関白に任ぜられた.文永2[1265]年に関白職を弟の一条実経に譲った.

一条実経[1265-1267]

摂政関白左大臣九条道家と西園寺公経の娘・西園寺棆子との間に生まれた.円明寺関白と呼ばれる.一条家の祖.

兄で鎌倉幕府第4代将軍であった藤原頼経と名越光時による執権・北条時頼への謀反[宮騒動;1246]に連座する形で失脚していたが,文永2[1265]年に関白に再任.文永4[1267]年,関白職を辞任.山崎円明寺にて隠居生活を送った.

近衛基平[1267-1268]

摂政関白太政大臣・近衛兼経と九条道家の娘・九条仁子との間に生まれる.深心院関白と呼ばれた.

文永4[1267]年に関白・藤氏長者の宣下を受けるも,翌年に病を得て薨去.

鷹司基忠[1268-1273]

関白太政大臣・鷹司兼平と一条実有の娘との間に生まれる.円光院関白と呼ばれた.

九条家からは鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経,第5代将軍・頼嗣が出るも,北条得宗家への謀反によって鎌倉から追放.これによって,朝廷においても,九条家の影響力は小さくなり,代わって近衛家が台頭.但し,藤氏長者となった後も実権は父の鷹司兼平が掌握していた.

九条忠家[1273-1274]

摂政関白左大臣・九条教実と藤原定季の娘・藤原恩子との間に生まれる.一音院関白と呼ばれた.父の九条教実の死によって祖父の九条道家によって養育された.九条道家は一条実経と九条忠家の子孫が摂関家を承継していくことを望んだという.その後,宮騒動による九条家の20年余の逼塞を経て,九条家の復権に反対した後嵯峨天皇の崩御と亀山天皇の譲位を契機として,関東申次・西園寺実兼による執権・北条時宗への働きかけによって関白・藤氏長者の宣下を受ける.

一条家経[1274-1275]

摂政関白左大臣・一条実経と坊門有信,もしくは,大炊御門家嗣の娘との間に生まれた.後光明峯寺関白と呼ばれる.

文永11[1274]年に後宇多天皇の摂政となるも翌年には辞任.

鷹司兼平[1275-1287]

建治元[1275]年,再び摂政・藤氏長者の宣下を受ける.

二条師忠[1287-1289]

関白左大臣・二条良実と坊門親仲の娘との間に生まれ,四条灑子によって養育された.四条灑子は四条隆衡の娘にして二条良実の正室.香園院関白と呼ばれる.

近衛家基[1289-1291]

関白左大臣・近衛基平の子.近衛関白と呼ばれる.

正応2[1289]年に関白・藤氏長者となる.

九条忠教[1291-1293]

摂政関白右大臣・九条忠家と三条公房の娘の間に生まれた.報恩院関白と呼ばれる.

宮騒動に始まる一連の北条得宗家への謀反計画に連座したために逼塞を余儀なくされていた九条家だったが,父・九条忠家の復権とともに忠教も復権.正応4[1291]年に,近衛家基に代わって関白・藤氏長者となる.しかし,正応6[1293]年に近衛家基に関白・藤氏長者を返した.

近衛家基[1293-1296]

九条忠教より関白・藤氏長者の返上を受けて就任するも永仁4[1296]に薨去.

鷹司兼忠[1296-1299]

関白太政大臣・鷹司兼平と平親継の娘との間に生まれた.歓喜苑摂政と呼ばれる.兄の関白太政大臣・鷹司基忠の養子となり,かつ,基忠の長男・冬平を自らの養子とした.

永仁4[1296]年に近衛家基の薨去を受けて伏見天皇の関白となる.

二条兼基[1299-1305]

関白左大臣・二条良実の子.兄の二条師忠の養子となり二条家を承継.光明照院関白と呼ばれる.

永仁6[1298]年に摂政および藤氏長者となり,翌年の正安元[1299]年に太政大臣,その翌年に関白に任ぜられる.

九条師教[1305-1308]

摂政関白右大臣・九条忠教と西園寺公相の娘との間に生まれる.浄土寺摂政と呼ばれる.

後二条天皇の皇太子である富仁親王[花園天皇]の東宮傅を経て,嘉元3[1305]年に後二条天皇より関白・藤氏長者の宣下を受けた.花園天皇の践祚[即位]に伴って辞職.

鷹司冬平[1308-1313]

関白太政大臣  ・鷹司基忠と衣笠経平[近衛家庶流衣笠家]の娘との間に生まれる.叔父である関白左大臣・鷹司兼忠の養子.後照念院関白と呼ばれた.

延慶元[1308]年,摂政・藤氏長者に任ぜられる.延慶3[1310]年には太政大臣,延慶4[1311]年には関白となる.但し,その後,関白の辞任と再任を繰り返す.

近衛家平[1313-1315]

関白右大臣・近衛家基と鷹司兼平の娘・鷹司朝子との間の子.岡本関白と号した.

正和2[1313]年に,鷹司冬平の辞任を受けて関白・藤氏長者になるも,正和5[1315]年に辞任.

鷹司冬平[1315-1316]

再任.

二条道平[1316-1318]

関白太政大臣・二条兼基と藤原為顕の娘・藤原宣子との間に生まれる.後光明照院関白と号する.

元亨3[1323]年,後醍醐天皇より内覧宣下.嘉暦2[1327]年には関白に任ぜられる.後醍醐天皇の倒幕計画への関与により,元弘2[1332]年には鎌倉幕府の命により父の二条兼基に預けられる.二条家は存続の危機を迎えるも,後に後醍醐天皇が配流先から挙兵し鎌倉幕府を倒すと復権.

一条内経[1318-1323]

内大臣・一条内実と一条実経の娘との間に生まれた.芬弥利華院関白と呼ばれる.

父・一条内実が嘉元2[1304]年に内覧に任ぜられながらも急死したため一条家を承継.文保3[1319]年,関白・藤氏長者の宣下を受ける.

九条房実[1323-1324]

摂政関白右大臣・九条忠教と藤原有時の娘との間に生まれる.後一音院関白と呼ばれる.

兄の摂政左大臣・九条師教の養子となり九条家の家督を承継.元享3[1323]年,後醍醐天皇より,関白太政大臣,藤氏長者に任ぜられる.翌年の正中元[1324]年,関白を辞職.

この年,後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕計画が発覚し,天皇側近である日野資朝・日野俊基ら捕らえられ,土岐頼兼・多治見国長・加茂重成らは六波羅探題軍の小串範行・山本時綱に攻められ自刃.

鷹司冬平[1324-1327]

再任.

二条道平[1327-1330]

再任.摂政関白太政大臣・二条兼基と藤原為顕の娘・藤原宣子との間に生まれた.後光明照院関白と呼ばれる.

後醍醐天皇の倒幕計画への関与により,元弘2[1332]年には鎌倉幕府の命により父の二条兼基に預けられる.二条家は存続の危機を迎えるも,後に後醍醐天皇が配流先から挙兵し鎌倉幕府を倒すと復権.

近衛経忠[1330]

関白左大臣・近衛家平の子.後猪熊関白と呼ばれる.

元徳2[1330]年,後醍醐天皇より関白・藤氏長者の宣下を受ける.しかし,これを不服とする左大臣・鷹司冬教が自宅に引き籠もったため7ヶ月で辞任.

祖父・近衛家基と亀山天皇皇女・北政所との間に生まれた近衛経平の子・基嗣と近衛家の家督を巡って争った.

鷹司冬教[1330-1333]

関白太政大臣・鷹司基忠と衣笠経平の娘との間に生まれた.後円光院関白と呼ばれる.兄の摂政関白太政大臣・鷹司冬平の養子として鷹司家の家督を相続.

元弘元[1331]年には後醍醐天皇が元弘の乱を引き起こし隠岐に配流.代わって,光厳天皇が即位.しかし,元弘3[1333]年には足利尊氏・新田義貞によって鎌倉幕府が倒れ,後醍醐天皇が帰京して建武の新政が開始される.

この激動期に藤氏長者であった.

南北朝時代

二条道平[1333-1334]

再任.関白太政大臣・二条兼基と藤原為顕の娘・藤原宣子との間に生まれた.後光明照院関白と号した.

元弘3[1333]年,配流先の隠岐を脱出した後醍醐天皇により左大臣,藤氏長者に任ぜられる.

近衛経忠[1334-1337]

再任.

建武元[1333]年に右大臣・藤氏長者に再び任ぜられる.延元2[1337]年に後醍醐天皇の南朝へと奔る.

近衛基嗣[1337-1338]

左大臣・近衛経平と藤原公頼娘・兵部卿との間に生まれた.近衛経忠と近衛家の家督を巡って争い,近衛経忠が南朝へと出奔すると近衛家の家督を相続.

一条経通[1338-1342]

関白内大臣・一条内経と西園寺公顕の娘との間に生まれた.

北朝第2代光明天皇の下で関白,藤氏長者を務めた.

九条道教[1342]

摂政左大臣・九条師教と守良親王の娘の間に生まれた.

鷹司師平[1342-1346]

摂政関白太政大臣・鷹司冬平と左中将近衛兼良もしくは中将長平の娘との間に生まれた.昭光院前関白と号する.

叔父で鷹司冬平の嗣子となった冬教の養子として鷹司家の家督を相続.

康永1/興国3[1342]年に関白,藤氏長者に任ぜられる.

二条良基[1346-1358]

関白左大臣・二条道平と右大臣西園寺公顕の娘・西園寺婉子との間に生まれた.

近衛経忠とともに後醍醐天皇による建武の新政の中核を担った.

しかし,建武3[1336]年に足利尊氏に敗れた後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を興すも,二条良基はこれに従わず京都に留まり北朝を支えた.後に,南朝への同情的態度を忌避する足利義詮によって延文3年/正平13[1358]年に更迭.

九条経教[1358-1361]

関白左大臣・二条道平の子であり,関白・九条道教の養子.

延文3年/正平13[1358]年,関白,藤氏長者に任ぜられる.

近衛道嗣[1361-1363]

関白左大臣・近衛経平と藤原公頼娘・兵部卿との間に生まれた.堀川関白,後深心院と号した.

足利義満と密接な関係を構築.

二条良基[1363-1367]

再任.

鷹司冬通[1367-1369]

関白右大臣・鷹司師平と洞院公賢の娘・洞院吉子との間に生まれた.一心院前関白と呼ばれる.

二条師良[1369-1375]

摂政関白太政大臣・二条良基と左衛門督局との間に生まれた.

応安2[1369]年,後光厳天皇のもとで関白,藤氏長者に任ぜられた.太政大臣・久我通相の辞任によって朝政は二条師良が掌握.永和4[1378]年に発狂し,永徳2[1382]年に世を去った.

九条忠基[1375-1379]

関白左大臣・九条経教と三条実忠の娘との間に生まれた.後己心院と号した.父の九条経教に先立った世を去った.

二条師嗣[1379-1382]

摂政関白太政大臣・二条良基と土岐頼康の娘との間に生まれた.後香園院と号した.

二条良基[1382-1387]

再任.

近衛兼嗣[1387-1388]

関白左大臣・近衛道嗣と洞院実世の娘との間に生まれた.後六条と号した.

嘉慶1/元中4[1387]年に摂政,藤氏長者に任ぜられた.

二条良基[1388]

再任.

二条師嗣[1388-1394]

再任.

室町時代

一条経嗣[1394-1398]

摂政関白太政大臣・二条良基と土岐頼康の娘との間に生まれた.

関白左大臣・一条経通が正平20/貞治4[1365]年に世を去り,その子・一条房経も翌年に亡くなったことで断絶の危機にあった一条家を相続.吉田兼煕が後光厳天皇と室町幕府第2代将軍・足利義詮の了解を得ての一条家承継であった.応永元[1394]年,関白・左大臣,藤氏長者に任ぜられる.

二条師嗣[1398-1399]

再任.二条良基の子.

一条経嗣[1399-1408]

再任.

近衛忠嗣[1408-1409]

摂政右大臣・近衛兼嗣の子.

二条満基[1409-1410]

関白左大臣・二条師嗣の子.

父・二条師嗣の出家に伴い,応永6[1399]年に近衛家の家督を相続.室町幕府第3代将軍・足利義満の偏諱を受けて名を道忠から満基に改めた.足利義嗣の加冠役も務めている.

一条経嗣[1410-1418]

再任.

九条満家[1418-1424]

関白左大臣・九条経教の子.後三縁院を号とした.室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱を受けて満家と名乗った.異母兄・忠基の養子となり九条家の家督を相続.

二条持基[1424-1432]

関白左大臣・二条師嗣と東坊城長綱の娘との間に生まれた.兄の満基の急死によって二条家の家督を相続.

一条兼良[1432]

関白左大臣・一条経嗣と東坊城秀長[菅原氏高辻庶流五条庶流]の娘との間に生まれた.桃華叟,三関老人,後成恩寺を称する.

兄の権大納言・一条経輔が病気を原因として隠退したことを受けて一条家の家督を相続.永享4[1432]年に摂政となるも,二条持基との間の九条流の家長を巡る争いおよび,後花園天皇の元服を巡る争いから辞任を余儀なくされている.

二条持基[1432-1445]

再任.

近衛房嗣[1445-1447]

関白左大臣・近衛忠嗣の子.

一条兼良[1447-1453]

再任.

鷹司房平[1454-1455]

右大臣・鷹司冬家の子.享徳3[1454]年に後花園天皇の関白となる.

二条持通[1455-1458]

摂政関白太政大臣・二条持基の子.

享徳2[1453]年,4[1455]年,寛正4[1463]年と3度関白に任ぜられた.

一条教房[1458-1463]

摂政関白太政大臣・一条兼良と中御門宣俊[藤原北家勧修寺流]の娘・小林寺殿との間に生まれた.土佐一条氏の祖.

室町幕府第6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教房と名乗る.応仁の乱が勃発すると一条家領の土佐国幡多荘に下向.

二条持通[1463-1467]

再任.

一条兼良[1467-1470]

再任.

二条政嗣[1470-1476]

関白太政大臣・二条持通と神祇伯・雅兼王の娘との間に生まれた.如法寿院関白と号した.

室町幕府第8代将軍・足利義政の偏諱を受けて政嗣と名乗った.文明2[1470]年に関白・藤氏長者に任ぜられた.

九条政基[1476-1479]

関白左大臣・九条満家と唐橋在豊[菅原氏]の娘との間に生まれた.慈眼院と号する.

九条家は兄の関白内大臣・九条政忠が相続していたが,唐橋在治が政基擁立を目指す.これに対して,九条政忠が唐橋在治暗殺を企てたことを室町幕府第8代将軍・足利義政が知り政忠は隠居させられた.

後に,唐橋在治の子・唐橋在数を借財に関係して殺害.この事態に対して,菅原氏の氏長者[北野の長者]の高辻長直ら菅原一族が九条家を告発.後土御門天皇臨席のもとで審理が行われ政基父子は出仕を停止され家礼を持つことを禁止された.

近衛政家[1479-1483]

関白太政大臣・近衛房嗣と播磨局との間に生まれた.後法興院と号した.

室町幕府第8代将軍・足利義政より偏諱を受けて政家と名乗る.応仁の乱が終焉した文明11[1479]年に関白・左大臣,藤氏長者に任ぜられた.

鷹司政平[1483-1487]

関白左大臣・鷹司房平の子.室町幕府8代将軍・足利義政より偏諱を受けて政平を名乗る.

九条政忠[1487-1488]

関白左大臣・九条満家の子.普門寺と号した.

弟の九条政基と九条家の家督を争い隠居に追い込まれる.九条政基の失脚に伴い復権.長享元[1487]年に関白,長享2[1488]年に藤氏長者に任ぜられるも同年に薨去.

一条冬良[1488-1493]

摂政関白太政大臣・一条兼良と南御方との間に生まれた.兄の一条教房が土佐国へと下向し,その子・一条政房が応仁の乱の戦乱を避けるために摂津国福原に隠れていた際に山名是豊・宇野政秀ら東軍によって殺害された[1469]ために,教房の養嗣子として一条家の家督を相続.文明9[1477]年に兄の一条兼良とともに帰京.長享2[1488]年に関白・内大臣,藤氏長者に任ぜられた.

近衛尚通[1493-1497]

関白太政大臣・近衛政家と加治能登入道の娘で近衛家諸大夫北小路俊宣の養女・北小路俊子との間に生まれた.

室町幕府9代将軍・足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る.『後法成寺関白記』の中で,細川澄元と細川高国の争いを「戦国の世の時の如し」と書き記し,これが戦国時代の由来となった.

戦国時代

二条尚基[1497]

関白左大臣・二条政嗣と広橋兼子との間に生まれた.二条関白と称した.

室町幕府第9代将軍足利義尚より偏諱を賜い尚基と名乗る.

一条冬良[1497-1501]

再任.摂政関白太政大臣・一条兼良と南御方との間に生まれた.

九条尚経[1501-1513]

関白左大臣・九条政基と智子[姓不詳]との間に生まれた.後慈眼院と号した.

明応5[1496]年,父・九条政基とともに借財をめぐる争いから家司唐橋在数を殺害し勅勘を受け失脚.

明応5[1496]年に勅勘を解かれ,文亀元[1501]年に関白,藤氏長者に任ぜられた.

近衛尚通[1513-1514]

再任.

鷹司兼輔[1514-1518]

関白太政大臣・鷹司政平と一条兼良の娘・一条経子の間に生まれた.法音院と号した.

二条尹房[1518-1525]

関白右大臣・二条尚基の子.室町幕府第10代将軍足利義尹[義稙]より偏諱を受け尹房と名乗った.

後に,周防の大内義隆を頼り,天文20[1551]年に大内義隆が陶晴賢に攻められた際に巻き添えとなり死去[大寧寺の変].

近衛稙家[1525-1533]

関白太政大臣・近衛尚通と太政大臣徳大寺実淳の娘・徳大寺維子との間に生まれた.室町幕府第10代将軍・足利義稙より偏諱を受けて稙家と名乗る.

永正18[1521]年に室町幕府管領・細川高国と対立した室町幕府第10代将軍・足利義稙が京都を出奔し,代わって足利義晴が将軍となり妹の慶寿院が嫁ぐと将軍家との関係を深める.

九条稙通[1533-1534]

関白左大臣・九条尚経と三条西実隆の娘・三条西保子との間に生まれた.室町幕府10代将軍・足利義稙より偏諱を受け稙通と名乗る.玖山と称した.

天文2[1533]年に関白,藤氏長者に任ぜられるも,経済的困窮から翌年に辞任.

二条尹房[1534-1536]

再任.

近衛稙家[1536-1542]

再任.

鷹司忠冬[1542-1545]

関白左大臣・鷹司兼輔と正親町三条公治の娘との間に生まれた.後専称院と号した.嗣子が無かったために鷹司家は断絶した.

一条房通[1545-1548]

権大納言土佐国司・一条房家の子.大叔父の一条冬良の婿養子として京一条家を相続.

天文[1546]年,細川玄蕃頭家の細川国慶が管領・細川氏綱の命で京都において地子銭を徴収しようとしたのに対して,中御門宣胤・山科言継,室町幕府奉公衆とともに反対し断念させた.

二条晴良[1548-1553]

関白左大臣・二条尹房と九条経子との間に生まれた.後明珠院と号した.室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け晴良と名乗った.

天文17[1548]年に関白,藤氏長者に任ぜられる.

一条兼冬[1553-1554]

関白左大臣・一条房通と一条冬良の娘との間に生まれた.

天文23[1554]年に早世.

近衛前久[1554-1568]

関白太政大臣・近衛稙家と久我慶子との間に生まれた.室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け晴嗣と名乗ったが,天文24[1555]年に前嗣と改めた.

天文23[1554]年に関白左大臣,藤氏長者に任ぜられた.永禄2[1559]年,上洛した長尾景虎[上杉謙信]と盟約を結び,永禄3[1560]年に越後国へと下向.長尾景虎とともに越山し古河城に留まった.永禄5[1562]年に帰洛.

永禄8[1565]年,室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝が三好三人衆[三好長逸・三好宗渭・岩成友通]によって殺害[永禄の変].この永禄の変後,三好三人衆の要請のより阿州公方・足利義栄を第14代将軍に就けている.永禄11[1568]年,足利義輝の弟・足利義昭が織田信長に報じられて上洛すると,近衛前久は足利義輝暗殺への関与を疑われて追放.

安土桃山時代

二条晴良[1568-1578]

再任.

九条兼孝[1578-1581]

関白左大臣・二条晴良と伏見宮貞敦親王の娘・位子女王との間に生まれた.大伯父の関白内大臣・九条稙通の養子として九条家を相続.後月輪と号する.

天正6[1578]年に関白,藤氏長者に任ぜられる.

一条内基[1581-1584]

関白左大臣・一条房通の子.自浄心院,翫月と号する.

天正9[1581]年に正親町天皇のもとで関白,藤氏長者に任ぜられる.天正10[1582]年,織田信長が明智光秀に本能寺で討たれた[本能寺の変].天正12[1584]年,二条昭実に関白,藤氏長者を譲った.

嗣子が無かったために,後陽成天皇の皇子・九宮を養子として迎え一条昭良とした.これにより一条家は皇別摂家となった.

二条昭実[1584-1585]

関白左大臣・二条晴良と伏見宮貞敦親王の娘・位子女王との間に生まれた.

天正12[1584]年に左大臣・藤氏長者,翌年には正親町天皇の関白となる.

天正13[1585]年,豊臣秀吉に関白職を譲った.