源氏というと,鎌倉幕府を開いた源頼朝,室町幕府を開いた足利尊氏,そして,江戸幕府を開いた徳川家康の清和源氏が有名. もっとも,徳川家康の場合は諸説あります.
それは,置いておくとしても,一口に源氏とは言っても,実は全部で二十一もの流れがあるとされています.
いづれも,律令制度が荒廃し日本全国に荘園という私領が増加し,天皇家の収入が減り皇室財政が逼迫,多くの子女を養うことが困難になったことに原因を発しています.「源」という姓を与えて皇籍を離脱させ自立させることは,こうした皇室財政の圧迫への対処であったと言えるのです.
財政逼迫に拍車を掛けたのは桓武天皇による2度の遷都と蝦夷征伐.思えば,清和源氏の嫡流は東北地方における軍功によって,武家の棟梁としての地位を確立.その源氏の遠い根源を求めれば桓武天皇による蝦夷征伐に辿り付くというのも因縁というものでしょうか.その桓武天皇の御子の嵯峨天皇こそが源氏を作り出した最初の人.
光源氏のモデルとも言われる源融[822-895]の墓所
弘仁5[814]年,嵯峨天皇は信・弘・常・明の四皇子と貞姫・潔姫・全姫・善姫を臣籍降下させます.続いて,寛・定・鎮・生・澄・安・清・融・勤・勝・啓・賢・継の十三皇子と更姫・若姫・神姫・盈姫・声姫・容姫・端姫・吾姫・密姫・良姫・年姫の十一皇女を臣籍降下.合計32人と全50御子のうち半数以上を臣籍降下させたことになるのです.
律令制度の「継嗣令」では六世から,それまでの前例からでも天皇の孫に当たる第三世からとなっていました.
これらの前例を破った嵯峨天皇は臣籍降下させた合計32人に一律に「源」の姓を与えます.この「源」というのは『魏書』の「源賀伝」にある南北朝・北魏の3代太武帝(世祖;拓跋燾[408-452])が五胡十六国のひとつ南涼の最後の王で同族の禿髮傉檀の子・禿髮破羌(賀)に「卿と朕とは同源である.区別するために姓を分け,今から源氏とすべし」として源賀と名乗らせたという逸話を下敷きにしたとも考えられています.
第52代嵯峨天皇[786-842]の皇子・皇女を祖とする源氏.
摂津渡辺氏/肥前松浦氏/筑後蒲池氏/尾張中島氏/常陸源氏
第54代仁明天皇[810-850]の子孫.
第55代文徳天皇[827-858]の子孫.源能有が有名.
第56代清和天皇[850-881]もしくは第57代陽成天皇[869-949]の子孫.貞純親王の子・経基王[源経基]の子孫が有名.
摂津源氏/大和源氏/河内源氏/美濃源氏・尾張源氏・三河源氏/近江源氏/竹内家[堂上源氏]
57代陽成天皇の子孫.清和源氏の源経基を陽成天皇の孫とする見解もあり.
第58代光孝天皇[830-887]の子孫.光孝天皇の第一皇子・是忠親王[857-922]は光孝源氏・光孝平氏の祖.
第59代宇多天皇[867-931]の子孫.
庭田家[羽林家]/綾小路家[羽林家]/五辻家[羽林家]/大原家[羽林家]/慈光寺家[半家]
近江源氏・出雲源氏[佐々木氏/六角氏/京極氏]
第62代村上天皇[926-967]の子孫.
久我家/中院家/久世家/東久世家/植松家/六条家/梅渓家/愛宕家/千種家/岩倉家/北畠家/赤松家
第63代冷泉天皇[950-1011]の子・為尊親王と敦道親王とは臣籍降下し冷泉源氏となったものの子孫なし.
第65代花山天皇[968-1008]の皇孫の延信王[Nobuzane-Oh]を祖とする白川伯王家.
第67代三条天皇[976-1017]の第1皇子の小一条院敦明親王[Atsuakira;994-1051]の子孫.
第71代後三条天皇[1034-1073]の第3皇子・輔仁親王[Sukehito;1073-1119]の第2皇子・花園左大臣源有仁[1103-1147].末裔を称する家も.
後白河天皇の第2皇子・以仁王.
第84代順徳天皇[1197-1242]の第5皇子・忠成王,第6皇子・善統親王の子孫.
四辻氏
第89代後深草天皇[1243-1304]の皇子で,鎌倉幕府8代将軍となった久明親王[1276-1328]の子孫.
第106代正親町天皇[1517-1593]の子孫.
広幡家[清華家]