嵯峨天皇と広井弟名の娘との間に生まれた.初代源氏長者.北辺大臣と号する.
弘仁5[814]年,弟の弘・常と源朝臣姓を賜与される.
嵯峨天皇と飯高岳足の娘・宅刀自との間に生まれた.弘仁5[814]年に兄の信・弘と源朝臣姓を賜与され臣籍降下.東三条左大臣と呼ばれる.
天長9[832]年,源常は中納言となり,嵯峨源氏の筆頭格として源氏長者となる.承和9[842]年に,恒貞親王が皇太子を廃される事件[承和の変]が勃発.恒貞親王に仕えた多くの人々が失脚する中,東宮傅であった源常は,そのまま新皇太子である道康親王の東宮傅に任ぜられている.
承和10[843]年には左大臣・藤原緒嗣が世を去ると朝政を左右するに至る.
再任.
貞観8[866]年には大納言・伴善男より応天門放火の疑いを掛けられるも太政大臣・藤原良房により救われる[応天門の変].しかし,一時とはいえ軍に邸宅を囲まれたショックは大きく,以降は逼塞する.
嵯峨天皇と大原全子の間に生まれた.河原院,河原大臣と呼ばれる.
元慶8[884]年,陽成天皇の譲位に際して自ら皇嗣として名乗りを上げたと伝わる.
嵯峨天皇の皇子・源弘[広幡大納言]の子.
従三位中納言に任ぜられている.源弘の子では,希が従三位中納言,悦が従三位参議となるなど2人が議政官となるも,次の世代では希の子の等が従四位上参議となったほかは議政官とはなれなかった.
源融と藤原総継の娘との間に生まれた.
源融の子.源湛の弟.河原大納言と号した.
従一位左大臣・源融の子では,湛[Tatau]と昇[Noboru]が三位大納言になったものの,望は左京太夫,副は兵部大輔に留まった.
大納言・源弘と阿保親王の娘との間に生まれた.
従三位参議に任ぜられている.源弘の子では,希が従三位中納言,悦が従三位参議となるなど2人が議政官となるも,次の世代では希の子の等が従四位上参議となったほかは議政官とはなれなかった.
藤原村椙と榎井島長の娘との間に生まれた.
源氏を外祖父に持つため源氏長者となる.
従三位中納言・源希の子.
醍醐天皇と源融の次男の昇の娘との間に生まれた.吏部王を名乗る.
太政大臣・藤原忠平の娘・寛子[906-945]を妻とし,寛子の没後は右大臣藤原師輔の次女の登子を後妻として迎えている.しかし,その子孫は活躍することは無かった.この点は常明親王・式明親王・時明親王・長明親王・雅明親王・行明親王・章明親王・盛明親王の子孫と同様.
醍醐天皇と源唱の娘・周子との間に生まれた.祖父の源唱は嵯峨源氏の大納言・源定の子.西宮左大臣と呼ばれる.
藤原師輔の三女と五女[愛宮]を室とする.その姻戚関係から康保3[966]年には右大臣,翌年には左大臣に昇る.しかし,冷泉天皇治下の安和2[969]年に源満仲によって橘敏延・源連が為平親王を擁立し東宮・守平親王[円融天皇]を廃そうとしていることが告発される[安和の変].源高明は娘を為平親王の妃としていたことから連座.大宰権帥として左遷.天禄3[972]年に京に戻された.源高明の三男・俊賢は権大納言,四男・経房は権中納言となっていることをはじめ,その子孫は藤原摂関家との血縁関係から院政期に至るまで繁栄.
醍醐天皇と伊勢守衆望の娘との間に生まれた.
朱雀天皇・村上天皇・源高明とは兄弟であり臣籍降下して源兼明となった.
源兼明が左大臣となっていた晩年,藤原兼家と対立していた関白内大臣・藤原兼通が従兄弟の藤原頼忠を左大臣にして自らの陣営を強固にする必要があった.また,円融天皇は兄・源昭平の皇族復帰を望んでいた.しかし,露骨な人事は行えないため,現職左大臣の源兼明を皇族に復帰させ,合わせて,藤原頼忠を左大臣とし,源昭平を皇族復帰させた.
中書王,御子左大臣と呼ばれる.この御子左大臣邸に,後に,藤原道長の子・藤原長家が伝領したため,藤原長家の家系は御子左家と呼ばれるようになった.
宇多天皇の皇子・敦実親王と藤原時平の娘との間に生まれた.一条左大臣,鷹司左大臣と号する.宇多源氏の祖.
源雅信の娘・倫子の婿は藤原道長であり,一条第・土御門第は藤原道長に伝領.摂関家の外戚となったことにより,宇多源氏のうちでも源雅信の家系は繁栄していくこととなる.