田丸氏は伊勢国司であり国司大名でもある北畠氏の一族.
北畠大納言材親の三男・北畠具忠が伊勢田丸城に拠ったことが起源.但し,北畠政郷[-1508]の四男・北畠顕晴が伊勢田丸城に入ったことが起源という説もある.
織田信長による伊勢国侵攻に際して,田丸具忠の子の田丸直昌[1564-1609]は伊勢田丸城を明け渡し,織田信雄に従う道を選んだ.田丸直昌は天正2[1574]年7月の第3次伊勢長島攻めには織田信雄配下の武者大将として戦っている.
また,織田信雄の命令により,長野具藤・北畠親成ら北畠一門が殺害された三瀬の変は伊勢田丸城が舞台となっている.
本能寺の変の後,織田信雄と豊臣秀吉が対立するに及んで,田丸直昌は豊臣秀吉に与し,豊臣秀吉配下の蒲生氏郷の与力大名となっている.三春城主5万2000石を振り出しに,守山城主・信濃海津城主を経て美濃岩村城主4万石に封じられた.
関ヶ原の戦いでは西軍に与したために越後国の堀秀治に預けられ,越後の地で没した.
田丸直昌の子の直茂は前田利長に仕え,その子孫は旗本となったという.