陸奥国中部の国人領主.桓武平氏良文流秩父氏一門豊島氏支流.
武蔵国豊島郡を本拠地としていた豊島清元[清光]の子・清重[1161-1238]が下総国葛西御厨を相続し葛西を称したことが起源.
豊島清元・葛西清重父子は源頼朝による奥州征伐に参加し,特に葛西清重は阿津賀志山の戦いに置いて先駆けの戦功を打ち立てた.これによって,葛西清重は葛西五郡・胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・六十六島などの所領を得たほか,奥州総奉行にも任じられた.
また,文治5[1189]年,藤原泰衡[1155-1189]に仕えていた奥州藤原氏遺臣の大河兼任[-1190]による大河兼任の乱を,千葉胤正[1141-1203]とともに鎮圧.それ以降は,鎌倉にあって,同じく陸奥国留守職・奥州総奉行に任じられていた伊沢家景[-1221]とともに奥州を管轄.
葛西清重自身は鎌倉にあって御家人の重鎮として活躍.清重のあとは葛西清親が関東の葛西領を,朝清が奥州の葛西領を引き継ぐこととなる.奥州に入部した葛西朝清は清重が奥州の拠点としていた登米郡寺池を本拠地と定める.
関東に残った葛西清親の系統は,清時の代に千葉氏から胤信を嗣子として迎え清信とした.この葛西清信は鎌倉幕府内において北条得宗家の御内人の勢力が台頭する中で活路を求めて奥州に下向.ここに,奥州に2系統の葛西氏が並ぶこととなる.奥州に下向した関東葛西氏は清信・貞清・高清と続き高清の代に鎌倉幕府が倒された.一方,奥州葛西氏の葛西武蔵守清貞は葛西太守としての地位を保ち,多賀国府に義良親王を奉じた北畠顕家が入ると,国府に赴き所領安堵を得ている.その一方で,関東葛西氏のいる登米郡寺池には戻らず国府近くの石巻日和山城に腰を据える.この後,関東葛西氏の葛西高清は寺池を拠点に,奥州葛西氏の葛西清貞は石巻を拠点に活動していく.