関白藤原忠平[880-949]の次男・藤原師輔を祖とする家柄.藤原師輔の子孫は,冷泉天皇[位:967-969],円融天皇[位:969-984],花山天皇[位:984-986],一条天皇[位:986-1011],三条天皇[位:1011-1-16],後一条天皇[位:1008-1036],後朱雀天皇[位:1036-1045],後冷泉天皇[位:1045-1068]の8代の歴代天皇の外戚となり摂政関白の地位を独占するに至った.
中でも,藤原道長は摂関政治の最盛期をもたらし,その子孫は御堂流と呼ばれた.
氏長者であった関白太政大臣・藤原忠平の次男.正二位,右大臣.藤原氏の氏長者は兄の実頼が承継.しかし,朝廷における実権は天皇家との間に外戚関係を持てなかった兄の実頼ではなく師輔が握っていた.
武蔵守藤原経邦の娘・盛子との間に産まれた安子を村上天皇に嫁がせ,第63代冷泉天皇・第64代円融天皇の生母とした.
正二位,摂政,太政大臣,贈正一位.一条摂政と呼ばれた.子孫は世尊寺家として続いた.
醍醐天皇皇子の代明親王の娘である恵子女王との間に産まれた懐子[Kaishi,Chikako]を冷泉天皇の女御として入内させ,花山天皇となる師貞親王をもうけさせる.天禄元[970]年5月に摂政太政大臣・藤原実頼の死去に伴い,円融天皇の外伯父の伊尹は藤氏長者となり摂政となる.翌年には太政大臣となるも,天禄3[972]年に病に倒れ世を去る.
花山天皇が即位すると,外伯父であった関係から伊尹の子の義懐が権勢を奮う.しかし,花山天皇が寵愛していた女御藤原忯子の急死を利用して,右大臣藤原兼家が自らの孫である一条天皇を擁立[寛和の変].義懐は出家を余儀なくされた.
右大臣・藤原師輔の次男.従一位,関白太政大臣.
兄の伊尹の死後,「外戚の重さと安子の遺命」によって,円融天皇によって,兼通が内大臣,そして,太政大臣,関白へと任じられるに至る.兼通が醍醐天皇皇子・有明親王の王女・昭子女王との間にもうけた媓子[Koushi/Teruko]が円融天皇の中宮であったことを利用して国政を円滑に運営する.同じ頃,譲位した冷泉天皇の女御となっていた兼家の娘の超子が居貞親王[三条天皇]を産む.病魔に冒されていた兼通は弟の兼家が外戚の地位を得ることを怖れ,貞元2[977]年にお野宮流の藤原頼忠に関白を譲り,弟の兼家を治部卿に左遷.兼通は死去し,遠江国に封じられ忠義公と諡された.
右大臣・藤原師輔の三男.従一位,摂政,関白,太政大臣.
兄の兼通に排斥されるも,花山天皇を退位させ孫の一条天皇を即位させ摂政の地位を獲得.子の道隆への権力譲渡にも成功し,伊尹・兼通・兼家と兄弟間で承継されてきた摂関の地位の世襲化を確立させた.
藤原北家真夏流の弼宰相・藤原有国,桓武平氏高棟流の平惟仲,摂津源氏の祖である源頼光を従えていたことで知られる.
藤原北家.摂政・関白・太政大臣・藤原兼家の長男.正二位,摂政,関白,内大臣.
永祚2[990]年5月に病気となった父・兼家が関白を辞すると,関白に任ぜられ,続いて摂政の地位を引き継いだ.しかし,長徳元[995]年に道隆も病に襲われる.道隆は一条天皇に頼み,子の伊周に関白の地位を譲ろうとするが,一条天皇は拒否.遂に,関白の地位を息子に引き継げないままに,道隆は世を去った.
藤原道隆の家は,後世,中関白家と呼ばれるようになる.
藤原北家.摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男.正二位,関白,右大臣,贈正一位,太政大臣.
藤原道隆が死去すると,一条天皇は道兼の息子の伊周ではなく,当時の兄弟継承の慣例に従って,一条天皇の外舅で,道隆の弟の道兼を関白とした.しかし,関白就任時に既に病魔に冒されていた道兼は4月27日の関白就任から日も浅い5月8日に世を去る.七日関白と呼ばれた所以である.
その子孫は、道兼の子の兼隆が正二位・中納言となったことを最後に公卿にはなれなかった.よって,地方に下向せざるを得ない状況に置かれ,下野国の宇都宮氏は末裔を称した.
藤原北家.摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男.後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父.従一位,摂政,太政大臣,准三后.
藤原道長が法成寺を創建し「御堂関白」と呼ばれていたことから,彼の子孫は御堂流と言われる.