源満仲[912-997]の次男・源頼親[966-1057]の子・源頼遠[1007-1062]を祖とする大和源氏.
永承6[1051]年,源頼遠・有光父子は陸奥守・源頼義に従って前九年の役に従軍.源頼遠は厨川の柵の戦いにて討ち死にするが,有光[1037-1086]は戦功により石川郡六十六郷を得て,石川郡泉郷の保源城を本拠とした.源有光は保源城は交通の便が良くないため藤田城を築城,更に三蘆城を築城し移る.三蘆城を本拠としたことにより,泉郷は長男の大寺光祐に譲り,源有光自らは石川を名乗ったとされる.
源有光の跡は,舘野将文の娘を妻とする三男の石川元光[1058-1099]が承継.石川元光は後三年の役において源義家[1039-1106]に従い清原武衡[-1087]との戦いに参加.その戦功により出羽国田川郡を得ている.
その後,佐竹義業の娘を妻とする石川光義[-1121],鎮守府将軍・藤原基成[1120-]の娘を妻とする石川義季[-1177],清和源氏満快流後裔の夏目国平[1175-1225]の娘を妻とする石川基光[-1199]が継いだ.石川基光は治承3[1179]年に一族の成田光治・石川兼雅とともに上洛している.石川基光の子・広季[-1248]は源頼朝が挙兵すると成田光治を派兵.奥州征伐にも軍を派遣.また,建久元[1190]年に奥州藤原氏の旧臣・大川兼遠の叛乱の鎮圧にも軍を差し向けた.
その子・石川光貞[-1269]は鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の娘を妻とし北条得宗家との関係を深めた.石川光長[-1291]・元盛[-1307]・盛義[-1318]・家光[-1330]と続き,石川家光は鎌倉幕府に暗雲が立ち込めてきた中で世を去った.そのため,幼少の貞光に代わって伯父の時光[-1335]が家督を承継.元弘3[1333]年,後醍醐天皇の呼びかけに諸国の武士団が挙兵すると,石川時光は子の義光を新田義貞[1301-1338]の軍勢に参加させる.
元弘3[1333]年,足利・新田連合軍が鎌倉に侵攻し北条得宗家を打ち破り鎌倉幕府を倒す.直ちに,後醍醐天皇により建武の新政が開始され,石川時光も上洛し参画する.しかし,石川氏は北条得宗家との関係が深かったこともあって倒幕の成果を正当に評価されることは無かった.それどころか,陸奥守となった北畠顕房は石川一族の所領であった鷹貫・坂地・矢沢三郷を結城宗広のものとした.
諏訪頼重に擁立された北条時行が挙兵[中先代の乱]すると,石川義光は足利尊氏の軍勢に参加し撃退.ここに石川氏は足利方であることを鮮明にする.足利尊氏は建武の新政に反感を抱く武士団の期待を担って後醍醐天皇から離反.足利尊氏が北畠顕房に敗れて九州へと落ち延びる際には石川義光も付き従った.
一方,石川庄においては,所領を奪われた石川一族と所領を得た白河結城宗広とのせめぎ合いが続いていた.南朝方の北畠顕家配下の広橋経泰が馬場原に進撃すると,これを石川一族を挙げて排撃し白河城まで攻め入ったものの所領を回復するには至らなかった.
石川時光の子・義光は足利尊氏方として戦う中,比叡山坂本の合戦において討死していたため,時光の跡は家光の子であり,時光が養育していた貞光[-1341]が承継.そして,その貞光は自らに子がいなかったことから,義光の子である詮持[-1351]に家督を譲る.
明徳3[1392]年,南北朝の合一がなると,奥羽の地は第3代鎌倉公方・足利満兼[1378-1409]の管轄となる.足利満兼は,奥羽支配のために稲村公方として足利満貞,篠川公方として足利満直を派遣.石川一族の面川掃部助光高,中畠上野介師光,小貫修理亮光顕,蒲田長門守光重らも忠誠を誓う傘連判状に名を連ねた.
第4代鎌倉公方・足利持氏[1398-1439]の代になると,京都の室町幕府と関東の鎌倉府との対立に拍車が掛かる.室町幕府4代将軍・足利義持[1386-1428]は鎌倉府の力を削ぐべく,関東地方・東北地方の武士を京都扶持衆として組織.甲斐武田氏,常陸山入氏,小栗氏,真壁氏,常陸大掾氏,下野宇都宮氏,下野那須氏,小野寺氏,篠川御所,伊達氏,蘆名氏,南部氏,白河結城氏,湊氏,桃井氏,塩松石橋氏,犬懸上杉氏,海道五郡輩[岩城・岩崎・標葉・相馬・楢葉]らが京都扶持衆として鎌倉府の支配から独立し幕府直轄とされた.
こうした動きに対して,応永30[1423]年,鎌倉公方・足利持氏は常陸介・小栗満重[-1423]に叛乱の計画ありとして討伐.更に,宇都宮持綱・桃井宣義をも討伐.この動きに対して,室町幕府4代将軍・足利義持が鎌倉府討伐の兵を起こす寸前までに至るも足利持氏の謝罪によって軍事衝突は回避.
しかし,応永32[1425]年に第5代将軍・足利義量[1407-1425]が世を去ると,足利持氏は次期将軍への意欲を示す.結局,第3代将軍・足利義満の子の天台座主義円が籤引きで選ばれ還俗して足利義教[1394-1441]として第6代将軍に就任.反発する鎌倉公方・足利持氏は京都扶持衆への圧力を高めていく.こうした中,石川一族は京都扶持衆の白河結城氏と対立.正長元[1428]年には石川義光が白河結城氏朝との戦いに敗れて討ち死に.京都の室町幕府と結ぶ篠川公方・足利満直は石川義光の所領を白河結城氏朝に与えた.一方で,石川義光の子・持光は鎌倉公方・足利持氏から所領を安堵された.南北朝時代の再来といっても良い様相を呈したのである.
永享10[1438]年,鎌倉公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実を攻め室町幕府への叛旗を翻した.永享の乱の勃発である.乱は鎮圧され足利持氏は自害に追い込まれ鎌倉府は滅亡.ところが,下総結城氏朝[1402-1441]は足利持氏の遺児である春王丸・安王丸を擁して叛乱を起こす[結城合戦].この叛乱も室町幕府軍によって鎮圧.
小峰氏5代当主・小峰朝親の子で白河結城氏朝の養嗣子となった結城直朝[1410-1493]は永享の乱における戦功により室町幕府から南奥州や北関東の諸氏への要諦として重視される.文安6[1449]年に結城直朝は蒲田城を攻略し石川蒲田氏を討ち取っている.加えて,文明16[1484]年には,あろうことか,石川一族の赤坂氏・大寺氏・小高氏が結城直朝の跡を継いだ白河結城政朝[1440-1510]に従う事態にまで陥った.石川氏は白河結城氏に押されまくり劣勢に立たされ続けた.
ところが,その白河結城氏も結城直朝・政朝父子の代が全盛期で,以降は惣領家と分家である小峰氏との対立が先鋭化し,永正の乱を境にして衰退していくこととなる.これにより,石川尚光は室町幕府から認められいく.次の石川稙光・晴光父子は伊達氏の内乱である天文の乱において伊達晴宗方として伊達稙宗方の田村氏と干戈を交えた.この頃の石川氏は石川一郡のみとなっており,佐竹氏の勢力拡大に伴って佐竹氏の脅威を直接受けるようになっていた.佐竹氏からの脅威への対策として,石川晴光は伊達晴宗の子・昭光を養子として迎えた.また,二階堂盛義が葦名盛氏に下ると石川領は佐竹氏と蘆名氏双方からの脅威に晒されるようになっていく.この時期に佐竹氏へと願える石川一族も続出し,石川晴光は,度々,岩城氏の元へと亡命を余儀なくされた.
天正2[1574]年,蘆名盛氏と佐竹義重が白河郡・石川郡を巡って激突.佐竹義重が大勝し白河結城氏が白河郡を失う.蘆名氏の影響力が無くなったことにより,石川晴光・昭光父子は佐竹義重への服属を条件として三蘆城への復帰が叶った.背景には伊達輝宗による調停があったとされる.
ところが,伊達輝宗と争う相馬盛胤の妹を妻とする田村清顕が須賀川二階堂領から蘆名・白河領へと攻め入る.これを契機として,石川領は田村軍,蘆名軍,佐竹軍入り乱れての草刈り場と化した.また,天正12[1584]年に伊達氏の当主が伊達政宗となり蘆名・佐竹両氏と対立するようになると石川昭光は伊達氏と袂を別つ.
天正17[1589]年,伊達政宗と蘆名義広が雌雄を決し蘆名義広が敗れる[摺上原の戦い]と石川昭光と白川義親は伊達氏の軍門に下った.
天正18[1590]年の豊臣秀吉の小田原征伐の際には伊達政宗に全てを託し直接の参陣をしなかった.この参陣しなかったことが災いし,奥州仕置において石川昭光は白川義親とともに改易された.
石川昭光・義宗は三蘆城を退去し,重臣・溝井義信[1532-1590]は豊臣軍との決戦を主張したものの受け入れられず三蘆城に放火し自刃.
その後,石川昭光は伊達政宗によって志田郡松山城6,000石を賜わり御一門筆頭とされた.慶長3[1598]年には伊具郡角田1万2千石を得て角田石川家の初代となった.
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