蠣崎 Kakizaki

北海道の大名・松前氏となった蠣崎氏の祖は清和源氏若狭武田氏流の武田信広[1431-1494].

武田信広は若狭守護・武田信賢[1420-1471]の子として生まれ,その弟で家督を譲り受けた国信[1437-1490]の養子となったという.しかし,信賢・国信,そして,信広の年齢の関係からすると伝説の域を出ないと言えよう.

ともあれ,伝説では武田信広は宝徳3[1452]年に佐々木繁綱・工藤祐長らと若狭国を出て古河公方・足利成氏[1438-1497]のもとを経て,三戸南部光政のもとへと向かった.奥州の地で田名部・蠣崎の知行を受けた.

長禄元[1457]年,蝦夷地においてコシャマインの乱が勃発.武田信広は客将として乱を鎮圧.その戦功により,上之国花沢館主であり上国守護の蠣崎季繁[-1462]の養女となっていた安東政季の娘を妻に婿養子に.但し,蠣崎氏の婿養子となって後にコシャマインの乱を鎮圧したとも言われる.

武田蠣崎信広の子の光広[1456-1518]の代には,蠣崎光広の勢力拡大への反発から,ショヤコウジ[庶野訇峙]が叛乱[1515/1519].この叛乱の前夜,宇須岸・志濃里・与倉前の館主である河野季通・小林良定・小林季景がアイヌの攻撃により討ち死にしている.さらに,永正10[1513]年には,松前守護・相原季胤が館主である松前大館が落城.相原季胤・村上政義が討ち死に.

これを契機として、蠣崎光広は上国から松前大館[徳山館]に本拠地を移した.

ショヤコウジ[庶野訇峙]の乱を鎮圧した蠣崎光広は,蝦夷地を支配する安東尋季[-1547]に対し松前守護職を求め認めさせた.

蠣崎光広の子の義広[1497-1545]は,相次ぐアイヌとの戦いに悩まされる.享禄2[1529]年には,西蝦夷のタナサカシとの戦いで工藤祐兼・祐致兄弟が討ち死に.勝山館を包囲されるという危機に陥るも和議を装った謀略によってタナサカシを暗殺し乗り切っている.

蠣崎光広の子・季廣[1507-1595]は父・光広の死の直後に従兄弟の蠣崎基広[1501-1548]による謀反に遭うも,長門広益の活躍によって鎮圧.東地[知内]のチコモタイン[日の本蝦夷酋長],西地[セタナイ]のハシタイン[唐子蝦夷酋長]との和睦にも成功.それ以降,主家である安東舜季[1514-1553]からの自立を目指すようになっていく.

蠣崎季廣の長男・舜広[1539-1561]と次兄の明石元広[-1562]が蠣崎基広の叛乱に関係して,実姉で南条広継[1529-1562]の妻によって毒殺されていた.このため,三男の慶広[1548-1616]が季廣の後を継いだ.依然として,蠣崎氏は安東氏の家臣であったが,安東氏と比内浅利氏との争いの中で安東氏の勢力拡大に貢献.さらに,前田利家に接近し豊臣秀吉への謁見を果たし所領安堵を得る.この所領安堵を以って,蠣崎氏は安東氏より正式に独立したとされる.


2002年9月16日(月)、松前町松城にて撮影.