南北朝時代に陸奥に入部した北畠顕家[1318-1338],北畠顕信[1320-1380]の子孫.津軽の浪岡城を拠点として外浜・北浜・田舎郡・奥法郡を支配した.
南朝方の拠点であった霊山城の落城後,北畠顕家の子・顕成[1335-]と孫・顕元が南部氏の庇護下で閉伊船越に移り,次いで浪岡に入ったとも伝わる.北畠顕成は,藤原秀衡[1122-1187]の子・藤原頼衡[1174-1189]の曾孫・浪岡秀種の娘・頼子[萩の局]と北畠顕家との間に生まれたとも.これが事実とすると,浪岡氏は奥州藤原氏と村上源氏中院庶流北畠氏の血脈を受け継いでいるということになる.
ともあれ,その家格の高さから浪岡御所と称された.
津軽にあって,浪岡北畠氏は大光寺氏・大浦氏と勢力を三分.その一方で,京都の朝廷との関係も維持し,具永[1487-]・具統[1509-]・具運[1532-1562]は高い官位を受けている.
永禄5[1562]年,一族の河原御所父子が浪岡城を攻撃し浪岡北畠具運を討ち取る[河原御所の乱].一族郎党の多くが命を落とす中で,奇跡的に助かったのが浪岡北畠具運の嫡子の三郎[具家/顕村].
顕村は檜山の下国安東愛季の娘を妻に迎えて勢力の回復を図ろうとする.しかし,機を逃さ大浦為信[1550-1608]が浪岡城に攻め入り浪岡北畠顕村は自刃.ここに津軽の名門・浪岡御所は滅亡した.