源頼朝による奥州征伐における戦功によって奥州留守所に任ぜられた伊沢家景を祖とする.
留守所であったことに因み留守を名字とし,陸奥国宮城郡を所領とした.
室町時代に入ると,15世紀前半までは奥州探題大崎氏の,それ以降は伊達氏の実質的支配下にあった.
留守家明は伊達持宗の子・郡宗を養嗣子として留守家の家督を承継させる.留守郡宗の子の藤王丸が早世すると,郡宗は伊達尚宗の子・景宗を同じく養嗣子として迎える.ここに至って,鎌倉幕府草創期以来の留守氏の血脈は伊達氏によって染め変えられたと言えよう.
伊達稙宗・晴宗父子が争う天文の乱[洞の乱;1542-1548]が勃発すると,伊達家から留守家に入った留守景宗は伊達晴宗に与する.留守氏の宿敵である国分氏は伊達稙宗に与し,留守氏と国分氏は激闘を繰り広げた.この乱の背景には,伊達稙宗が婿の相馬顕胤[1508-1549]に相馬旧領宇多郡・行方郡を返還しようとしたこと,時宗丸[伊達実元;1527-1587]を越後守護・上杉定実[-1550]の養子として多くの伊達家臣団を附属させて送り込もうとしたことに対する伊達晴宗の反発があった.当初は伊達稙宗方が有利であったが,稙宗陣営において田村隆顕[-1547]と蘆名盛氏[1521-1580]が対立し,蘆名盛氏が伊達晴宗方に転じると戦況が一転.天文17[1548]年に室町幕府第13代将軍・足利義輝[1536-1565]の仲裁により伊達稙宗が晴宗に家督を譲り隠居することで決着.
天文の乱において伊達晴宗方として活躍した留守景宗の子の顕宗は伊達晴宗の子の政景を養嗣子として迎える.こうした,いわば留守氏の伊達氏化に対して,留守氏の譜代家臣団から反発が出て動揺が巻き起こる.しかし,家督を承継した留守政景は実兄の伊達輝宗と連携して,家中の統制を強化し,反伊達勢力を駆逐することに成功.
留守政景は伊達政宗の代にも重用され,伊達氏による大崎攻めにおいては,泉田重光とともに大将に任ぜられている.
こうした状況を反映し,豊臣秀吉による奥州仕置において留守氏は伊達氏の家臣とされる.ここに至って,留守氏は名実ともに伊達氏の支配下に入った.