英国史

年月日出来事
B.C.55-54カエサル[Gaius Iulius Caesar]によるブリタニア遠征.
A.D.60ブーディカ女王[Boudica]の叛乱.ケルト人イケニ族の女王・ブーディカがクィントゥス・ペティッリウス・ケリアリス・カエシウス・ルフス[Quintus Petillius Cerialis Caesius Rufus]が率いるローマ帝国第9軍団ヒスパニアを敗る.ロンディニウム[ロンドン]で多数のローマ人が虐殺されるも、ローマ軍により叛乱は鎮圧され、ブーディカ女王は自害.
122ハドリアヌス皇帝来島時にハドリアヌスの長城の建設開始.その後、次期皇帝によりアントニヌスの長城も建設.
211版図が拡大しすぎたローマ帝国はブリタニア諸族と協約を締結し同盟者となる.
409ゲルマン諸族がライン川の防衛線を越境しガリアに侵攻する中、ブリタニア人が総督を追放.
5-7cアングロ・サクソン諸族がブリタニアに侵攻.西に追いやられたブリトン人はアングロ・サクソン人から異邦人を意味するウェアルフ人と呼ばれるようになる.これがウェールズの語源に.
7c初頭アングル人、サクソン人、ジュート人などゲルマン系のアングロ・サクソン諸族がブリタニア中央部・東南部を制圧.20国が群雄割拠し、それらがケント、サセックス、ウェセックス、イースト・アングリア、エセックス、マーシア、ノーサンブリアの7王国となる.
757マーシア王エゼルバルド[位:716-757;Æthelbald,Aethelbald]が南イングランドの全ての王を僭称するも家臣により暗殺.エゼルバルドは、アングロサクソン人の諸国の筆頭の「覇王[ブレトワルダ;Bretwalda]」であった.マーシア王国[Mercia]は混乱状態となる.
757エゼルバルドの従弟のオファ[Offa;位:757-796]がマーシア王国の内乱を平定.続いて、エセックス王家、サセックス王家を滅ぼす.ケント王家、イースト・アングリア王家も一時断絶、ウェセックス王家にもマーシア王国の宗主権を認めさせる.しかし、オファ王の死後、マーシア王国は急速に勢力を失っていく.
865北ゲルマン系デーン人[ヴァイキング]がイングランドに侵攻.イースト・アングリア王国、ノーサンブリア王国を制圧.ウェセックス王国も大半の領土を失う.

ウェセックス王家 House of Wessex

デーン人侵攻を食い止めたウェセックス王国のアルフレッド大王に始まり、その孫のアゼルスタン王[位:924-93]によってイングランドが統一される.エドガー王はスコットランド王、ウェールズ首長を臣従させ名実ともにイングランド王の地位を固める.しかし、エドガー王の死後、息子のエドワードとエゼルレッドが王位を争う.エドワード王[位:975-978]の暗殺後にエゼルレッド無思慮王[位:978-1016]が即位した時、デーン人が再侵攻.エゼルレッド無思慮王は防衛のために対岸のノルマンディ公リシャールと同盟し、リシャールの妹・エマと結婚.体制を固めたエゼルレッド無思慮王は側近達とデーン人殲滅に着手.

デーン王朝 North Sea Empire;1016〜1042

エゼルレッド無思慮王によるデーン人殲滅令に対抗してデンマーク王スヴェンが大軍を率いてイングランドに上陸.エゼルレッド無思慮王はノルマンディに一時亡命.再上陸したエゼルレッド無思慮王とデンマーク王スヴェンがイングランドで激闘を繰り広げる中、イングランド有力貴族はスヴェンを支持.スヴェン王の死後、王子クヌーズが1016年、アングロ・サクソン封建家臣団会議で王に推挙され、イングランド王カヌートとして即位したことによって成立.カヌート王がイングランド・デンマーク・ノルウェーの3国の王となったことから北海帝国とも呼ばれる.

カヌート王の死後、彼の死後、エドワード証聖王が即位してデンマークから自立するも混乱.エドワード王の死後、王妃の父であるウェセックス伯爵ゴドウィンが子のハロルドをハロルド2世として擁立.

ノルマン朝 Norman dynasty;1066〜1154

1066年、フランス王国の諸侯であるとともに、イングランド王国のエドワード王の従甥でもあったノルマンディー公ギヨーム2世[ウィリアム]がアングロサクソン人のハロルド2世の支配下にあったイングランド王国を征服し、ウィリアム1世として国王に即位したことで成立.

無政府時代 The Anarchy;1135〜1154

ノルマン朝のヘンリー1世はその死に際して、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に先立たれていた娘のマティルダを指名.フランスのアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚させた上で王位に付けようとする.これに対して、王姉アデラの息子のブロワ家のエティエンヌがイングランド王スティーブンとして即位.マティルダは兄グロスター伯ロバートとともにイングランド王位を巡って戦いを挑んだ.

プランタジネット朝 Plantagenet dynasty;1154〜1399

ブロワ朝スティーブン王は、マティルダの息子・アンジュー伯アンリとウォーリングフォードで和平協定を締結.スティーブン王がアンリを王位継承者とすることで合意.ここに無政府状態は終焉した.ここにプランタジネット朝が樹立されることとなる.

なお、ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地を所有していた.この事実が後の英仏百年戦争の導線となっていく.

1337年11月1日、エドワード3世がカペー朝の断絶を受けてフランス王に即位したフィリップ6世に対して母親がカペー家王女であったことを理由としてフランス王位を主張し英仏百年戦争を開始.1453年10月19日のボルドー陥落まで116年間の戦争状態に.

年月日出来事
1154/12アンジュー伯ジョフロワと皇妃マティルダの息子のアンリがウェストミンスター修道院でヘンリ2世として即位.父親からはアンジューを相続し、妻アリエノールはアキテーヌを相続していたため、所領はイングランドの他にフランスの西半分に及びアンジュー帝国と称されるようになる.
1157年イングランド内戦時にスコットランド王ディヴィッド1世が征服したカンバーランド、ウェストモーランド、ノーサンブリアを継承した孫のスコットランド王マルコム4世をイングランドに召喚し臣従礼を行わせる.
1157〜1165ウェールズ大公を自称するオウェン・グウェネッズ[Owain Gwynedd;1100以前〜1170/11/28]討伐のためヘンリ2世がウェールズ遠征.
1173ヘンリ2世が五男で土地の相続権を有していなかったジョンにアンジューの一部の譲渡を宣言.後継者だった若王ヘンリが叛旗を翻すも鎮圧される.
1189フランス王フィリップ2世の支援を受けていた若王ヘンリが1183年に、四男のブルターニュ伯ジェフリが1186年に亡くなると、アキテーヌを相続していた三男のアキテーヌ公リチャードがフィリップ2世と組んで父王に叛旗.戦闘中にアンジューのシノン城でヘンリ2世は死去.
1189/09アキテーヌ公リチャードがウェストミンスター修道院で戴冠しリチャード1世として即位.第3回十字軍に参加[-1194].遠征中にオーストリア公レオポルドと対立.
1192イングランドへの帰国途上、リチャード1世がオーストリア公レオポルドの策略により、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の虜囚となる.身代金はイングランド王国の年間収入の3倍の10万ポンドにも及び、このために1194年には四分の一税を課税.虜囚期間中に、フィリップ2世がノルマンディ、ヴェクサン、トゥレーヌを占領.
1198リチャード1世がフィリップ2世に占領されていた地を奪還.
1199戦傷がもとでリチャード1世[獅子心王]が死去.アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ諸侯はリチャード1世の弟・ジェフリの遺児・ブルターニュ伯アーサーを推戴.しかし、イングランド、ノルマンディ諸侯がリチャード1世の弟・ジョンを支持し、結局、ジョン王が即位.
1200ジョン王がブルターニュ伯アーサー側を完全制圧.アンジュー帝国の全領土がジョン王の支配下に.大陸の領地の支配権を確実にするために、フランス国王フィリップ2世にヴェクサン、エヴルーを割譲する条約を締結.
1200/08ジョン王が跡取りをもうけるため、幼少のアングレーム伯家のイザベラと再婚.これに、イザベラの婚約者のラ・マルシュ伯ユーグの息子ユーグ9世・ド・リュジニャンがフィリップ2世に訴えを起こす.ジョン王はフィリップ2世による法廷召還令を無視したため、フィリップ2世はジョン王とイングランド王位を争ったブルターニュ伯アーサーを再び支持.
1202ブルターニュ公アーサー[Arthur of Brittany]がイングランド王ジョンに叛旗を翻すも、ミラボーの戦いで虜囚となる.アーサーは1203年4月に幽閉されていたルーアン城で死去.
1203/12イングランド王ジョンがイングランドに帰国すると、フランス王フィリップ2世がノルマンディー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーに侵攻.
1204リチャード1世ゆかりのヴァクサンのガイヤール城が落城.ノルマンディーがフィリップ2世の支配下となり、ジョン王の領土はロワール川以南とガスコーニュのみとなる.この事態に、ジョン王は欠地王と呼ばれることとなる.
1209ローマ教皇インノケンティウス3世が自らの側近であるスティーヴン・ラングトンのカンタベリー大司教叙任に反対したジョン王を破門.
1213フランス侵攻のためにジョン王がローマ教皇インノケンティウス3世に屈服.
1214ジョン王が神聖ローマ皇帝オットー4世、フランドル伯と同盟を結びフランスに侵攻.しかし、フランス王フィリップ2世はブーヴィーヌで勝利.ジョン王はイングランドに撤退.
1215度重なる課税に対してイングランド諸侯がジョン王と対立し内戦に.優位に立ったイングランド諸侯軍は、ジョン王に「大憲章[マグナ・カルタ]」を提出.
1216ジョン王はマグナ・カルタを破棄し、1215年8月に再び内戦に突入[第1次バロン戦争].しかし、1216年10月にジョン王が死去.10月に9歳のヘンリ3世[位:1216-72]が即位.
1217国王軍が5月のリンカンの戦い、8月のドーヴァー海戦で勝利.
1225カンタベリー大司教と司教11人、大修道院長20人、伯9人、諸侯23人が召集され諸侯大会議が開催される.
1258ヘンリ3世とフランス国王ルイ9世との間で、ヘンリ3世がノルマンディー、アンジューを放棄する代わりにアキテーヌ公の地位を認めガスコーニュ領有を承認するパリ条約が締結される.
ローマ教皇インノケンティウス4世による、ヘンリ3世の次男・エドマンドのシチリア国王推挙に応じるためのシチリア遠征費捻出を巡って、ヘンリ3世の妹・エレノアの夫・レスター伯シモン・ド・モンフォールら改革派諸侯が国王に改革を要求.
1264[第2次バロン戦争]レスター伯シモン・ド・モンフォールがリュイスの戦いで国王軍を敗り国王一族を拘束.
1265皇太子エドワードが脱出し、イーヴァシャムでレスター伯シモン・ド・モンフォールを戦死させる.
1272ヘンリ3世が死去.ヘンリ3世の長男・エドワード1世[長脛王;位:1272-1307]が即位.
1277ウェールズのウェールズ大公サウェリン・アプ・グリフィズがエドワード1世への臣従礼を拒否.エドワード1世がウェールズに遠征.ウェールズ大公軍は敗北しイングランド諸侯によるウェールズ支配が始まる.
1282ウェールズ諸侯が叛乱.サウェリンも叛乱に加わるも再度敗北.サウェリンは殺害されグウィネッツ君公国が崩壊.
1284ウェールズ諸侯がウェールズ生まれで英語を話さない人物ならばウェールズ大公として受け入れるとの要求に対して、エドワード1世はカーナヴォン城で同城で生まれたばかりの後の皇太子エドワード2世をウェールズ大公とする.正式な叙任は1301年.
1292/11/30スコットランドのカンモア王家が断絶.傍流のベイリオル家、ブルース家が対立.スコットランド諸侯の要請によりイングランド王エドワード1世がベイリオル家のジョン[John Balliol]をスコットランド王を即位させる.
1294/05フランス王フィリップ4世がエドワード1世が領有するフランス国内領の没収を宣言.ガスコーニュ戦争が開始される.しかし、スコットランド王ジョンはフランスへの出兵を拒否.
1295/10スコットランド王ジョンがフランス王フィリップ4世と同盟を締結[古き同盟].
1296イングランド王エドワード1世がスコットランドに侵攻.スコットランド王ジョンはダンバーの戦いで負けた後、ストラカスロで降伏し、退位させられる.
1297/09ウィリアム・ウォレスが率いるスコットランド諸侯軍がスターリングでイングランド軍と会戦し勝利.
1298/07イングランド王エドワード1世がフランス遠征から帰国し、フォルカールでスコットランド諸侯軍と会戦.ウィリアム・ウォレスを捕縛し1305年8月に処刑.これによりエドワード1世はスコットランドの直接統治を宣言.
1303英仏間でパリ条約締結.ガスコーニュがエドワード1世に返還され、フィリップ4世の娘・イサベルとエドワード1世の子で後のエドワード2世との婚約も成立.
1306/03スコットランドのカンモア王家の傍流であるロバート・ブルースがスコットランド国王を名乗り挙兵.イングランド王エドワード1世が再びスコットランドに侵攻するも、1308年7月に軍旅の途上で死亡.
1308エドワード1世の子のウェールズ大公エドワードがイングランド王エドワード2世として即位.ガスコーニュ出身の摂政ピアズ・ギャヴィストンが戴冠式後に諸侯によりアイルランドに追放.ギャヴィストンは一時復権し国王側近として権勢を振るうも、改革派諸侯により1312年6月に斬首.
1314/06エドワード2世がバノックバーンで「スコットランド王」ロバート・ブルースに敗北.
1322エドワード2世側近のデスペンサー父子ら宮廷派が台頭.改革派諸侯と闘争.宮廷派が勝利し、改革派指導者のランカスター伯トマスが処刑される.
1323「スコットランド王」ロバート・ブルースがウィリアム・ドゥ・ランバートン司教[William de Lamberton]から王冠を授けられ、ローマ教皇から正式にスコットランド国王ロバート1世として認められる.

ランカスター朝 Lancaster dynasty;1399〜1461、1470〜1471年

イングランド王リチャード2世にランカスター公領を没収されたダービー伯爵ヘンリがリチャード2世を幽閉.イングランド王ヘンリ3世の後裔として議会に認められ、ヘンリ4世として即位.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.





















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